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内村薫風「パレード」

出典:『新潮』2014年3月号
評価:★★☆☆☆

『新潮』3月号は人造人間エヴァンゲリオンの初号機みたいな配色。それにあわせてというわけではないでしょうが、本作は、使徒…ならぬ国籍不明の兵士が日本に侵入して人を殺しまくるというヴァイオレンス作品です。純文学雑誌掲載作ならではの特徴といえばいいのか、さまざまな人物が死の直前に見聞したものをすべて「私」の視点から語っているというしかけがあります。「私」が殺され、その次にまた「私」が生きた人物としてしれっと出てくる。そこで読み手ははじめ若干の戸惑いを覚えるものの、「私」が死ぬたびに新たに登場する「私」は別人(あるいは別の意識を持った主体)なのだ、とからくりを理解してしまえば特に引っかかりを覚えるようなものではありません。

 故障ではなかった。テレビのチャンネルを変えたのは、二十三時になる少し前だ。広島カープの延長戦の結果を知るために、プロ野球ニュースを眺めていたところ、画面上部にニュース速報が表示された。解説者のコメントを耳で受け止めながら、私はスマートフォンに届いたばかりのメール、浮気相手の樹里が書いた、
──わたしの誕生日は一緒に過ごせる?
 の鬱陶しい念押しを読んでいたため、文字スーパーに視線を戻した時には文末の、
──警告を無視し、領土に侵入した。
 の文字を捕えるのがやっとだった。(p.88)

と、作品の入り口で読者も非常事態に突入したことが知らされます。その後、この浮気をしている男性の自宅に謎の兵士が侵入し、男性は射殺されます。

 その三時間後の県庁、一階エントランスに、私はいない。自宅に入り込んできた、迷彩服の兵士三人に自動小銃を連射され、その場で死亡したからだ。県庁のエントランスにいるのは、公立高校サッカー部に所属する高二の、私だ。(p.89)

最初の躓きの石があるとすればここですね。「私はいない」のところで、あれ?と思って、これは射殺された「私」が死後、その生前をふり返って語っているのかととりあえず納得する。そしてその次に「公立高校サッカー部に所属する高二の、「私」が出てきて、読み手は混乱します。

高二のときの私も、県庁で射殺される。(p.90)

ここにきて了解できるのは、「私」というのはそれぞれ別の人物(あるいは意識)なんだということ。高二のときに射殺されてしまった「私」がその後妻をめとって浮気するなんて時間の順序としておかしいですもんね。そしてこの仕掛けをひとたび納得してしまうと作品はとたんに退屈になります。この、「私」という同じ呼び名の器にさまざまな人(あるいは意識)を注ぎ込む方法をひたすらこなしていくことだけがこの作品の課題になったかのようで、話は進展していきません。同じところをぐるぐる回り続けて実に退屈です。

イデオロギー的に偏向したおもしろ資料は論外にしろ、実際の戦争体験の手記や記録映像はいまやいたるところでふれることができます。戦争を直接は経験せずとも、それらを見れば一発で「戦争は怖い」「殺されるのはいやだ」という感慨がわく。ヴァーチャルな体験ではあっても、皮膚が焼けただれてケロイドになっている人間、医者や看護婦が足りずに蠅のたかるまま放置される傷むき出しの少年少女の写真や映像からは思わず目をそむけてしまうものがあります。資料のある限り以下無限ループ。本作「パレード」の退屈さとは対極の、読み手の芯にがつんと響いてくる痛みが、実際の資料にはあります。

 タックルした二人の男は、見るからに堅気の男ではない。
(中略──引用者)
 戦争反対を叫ぶ、青白い男を殴りつけ、気絶させた上で服を脱がし、憲法九条改正を訴える青白い男をサンドバッグ代わりにした。人種差別のヘイトスピーチを行う集団に割って入り、片端から殴りつけ、それを動画に撮る通行人を殴りつけ、アフリカの子供たちにワクチンをあげようと寄付を集める者も殴りつけ、そこで転がった寄付金を拾う通行人を殴りつけた。拳の皮は破れては固まった。(p.99) 

ギャグで書いているならいいんです、この件に代表されるなんの痛みもない暴力場面もすんなりと納得できます。けれどギャグではない証拠に全く面白くない。痛くも痒くもない。読み手は殴られる側の痛みを全く感じることなくただ文字として「殴られた」のオンパレードを目にし、かといって殴る側の拳の皮が「破れては固まった」といわれてはいるけれどそれが何百回何千回繰り返されようと寸毫の痛痒を感じることもない。書かれてあるだけの退屈なト書きが、別々の「私」の死を終点にリピート再生される。単なる文字として「死」「殺」を目にするだけでなんも面白くありません。

一篇の小説としてなにか方法的に試してみたいことがあったのかもしれませんが人称を「私」に統一して語る手法自体さして目新しくもないし、といってそこで反復される死は全然読み手(少なくとも僕)には迫ってくるものはない。方法だけが突出した作品は安っぽいどころか、人の死を、こんなふうにテレビで放映してもまったく問題ないような無害化された日曜洋画劇場みたいなやり方で書いてしまえる鈍感さに、僕は呆れすら覚えました。全国のシネコンで上映される、そのくせ翌日にはほとんど誰の記憶にも残らないアクション映画の脚本でも書けばきっと需要あると思いますよ。
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