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辺見庸「アプザイレン」

出典:『文學界』2014年3月号
評価:★★★★☆

石原対談もさることながら『文學界』3月号は執筆陣も豪華で、今月の文芸誌のうちからどれか一冊だけ買うとすれば本誌じゃないでしょうか。歴代芥川賞の受賞者たち(抜けている人もいます)が短編競作かエッセイを寄稿しており目次を眺めるだけで壮観。ひと月で全部読みきってしまうにはもったいないほど内容、量ともに充実の、少しづつ堪能したい保存版もしくは転売用の一冊に仕上がっています。

そんな中から、辺見庸の「アプザイレン」。星4つとしたけれど、5つでもいいかもしれない(あとで変更するかもしれません)。迷いました。アプザイレンとはロープと下降器をつかって岩場など高い場所から下降する技術で、原語はドイツ語のアプザイレン(Abseilen)、日本語訳では懸垂下降というのだそうです。SWATのような特殊火器で武装した戦術部隊がビルの屋上からロープで下降し、悪者たちの秘密会議室へ窓ガラス蹴破り突入するときの、あの滑降をイメージすれば、アプザイレンということばに全く馴染みない人でも、容易に「ああ、あれね」と想像つくと思います。もっとも本作は山の話でもなければ警察アクションでもなく、よくわからないところから語りおこされます。

 かれはふかい水のなかにいる心地がした。そうおもいたかっただけなのかもしれないが。からだがおもい。空気もすっきりと透明ではなく、かすみがかったようになっているのはなぜなのだろう。光の屈折率がちがうのか、ここは明るいのに、そこはかとなく昏い。それに、あるべき影がどうも見えない。ひとりびとりが、おどろくべきことには……といっても、ここではおどろくべきことなんかなにもないのだが……それぞれの影をひきずっていない。ひとじしんが影と化したようなのだ。うすく漉した餡の色の影に。ひとりびとりの本体が、すでに影にのまれたからだろうか。どうりで影は影をひきずっていない。いつからか難聴になったようだ。音が遠い。(p.88)

一文目で「かれ」と呼ばれている存在の意識に、知らぬ間に語りが同調して、第二文、第三文目までにはすっかり一人称の語りに意識が浸透してしまいます。計算なくこんなことやられると技術未熟で一蹴されるはずですが、この、漢字をひらいてひらがなで綴られているビジュアルには、混沌のただなかに居るような、意識のはっきりしない「昏さ」あるいは「蒙さ」が胚胎しており、まだしばらく先が知りたい気にさせられます。意識が流動しているどころか人と影との境界も曖昧になって同化してさえいる。聴覚も聞こえているのか聞こえていないのかわからない、といってもちろん佐村河内氏など一切関係なく、人の意識や間隔が周囲に浸透、溶解していくような語りがまだしばらく続きます。昏い意識の底に流れ沈みこむようなことばに僕は松浦寿輝『吃水都市』を思いだしました。

以降も続くこの意識のはっきりしなさの裏には、ひとつに視覚(描写)の抑制=他の感覚(描写)の促進があります(とりわけ聴覚)。加えて、誰だかわからない語り手の記憶も前後します。そして過去を想起するなかでも唄の文句が出てくる。

あたまのなかをだな、唄でいっぱいにするんだよ。ほかのことをぜんぶしめだすのさ。くりかえしてうたっているとだな、終わってるんだ。CMソングなんか意外といい。どんなCMソングですか? あほ、じぶんでさがせ。せんぱい、おねがいです、ヒントだけでも。ふーむ、たとえばだな、カムカム・チンカム・チムカントム……。なんすか、それ? ミカン・チンカム・タケノカム・コメノモタセニャ・パタラケヌ……ってだな、五番まであたまのなかでうたう。すなおにな、なんでもおもいついたのを、すなおに、いっしょうけんめいうたうのさ。そのうちにな、みんな終わってる。(p.89)

時間を過去に飛ばしてさらにそのなかで先輩がわけのわからない唱歌の文句をリフレインする。読み手の意識も、ミニマルミュージックかお経でも聞いているように酩酊してきます。そして先輩がいうように唄をあたまのなかで歌っているうちに「何か」が終わっているのだと助言されている。しかし「何か」は語り手と先輩との間で了解されているだけで読み手には明かされません。

かれはおもった。「上」と「下」について。というか、上から落ちていくのと、下に落ちてくる、そのちがいについて。じつは、もうなんどか、くりかえし、かんがえはしたのである。〈落ちる身〉になっておもったのではない。そんな余裕など、すこしだけしか、いや、ほとんど、あるいはまったくなかった。それでよいのだ。じょうだんではない。〈落ちる身〉になってはいけない。ここの、それがぜったいのきまりだ。かれはもっぱら〈落ちる者を見る身〉になって、落下ということを、下からイメージしたのであった。(p.91、強調部は原文傍点)

「かれ」は上から何かが落ちてくるのを見る者であるようです。そして「ここ」では〈落ちる身〉にならないよう戒められてもいる。ここからまた、「かれ」の学生時代、ワンゲル部で経験した懸垂下降の体験が想起され、やがてまた「ここ」へと意識が戻ってくると、自分の身体器官が発生させるかすかな音までが感じられるようになります。ここでも極度に聴覚が敏感になっている。

このあたりから読み手もなんとなく感づいてきます。大臣がこの「落体」を視察しにやってきたときのエピソードが語られ、「落体」を執行した人々は大臣にたいして「まことに厳粛でした」「粛々ととりおこなわれました」とコメントする(p.95)というあたりでやっと、この作品で語られているのは絞首刑執行の状況、そして「かれ」とはその執行のボタンを押す刑吏のひとりなのだと知れます。

冒頭から視覚描写が抑え気味であったのも、「かれ」が見たくない情景が繰り広げられているからです。それに代わって耳は、重要な公務中であるため耳栓などするわけにもいかず、いやがおうにも音の侵入を許してしまう。これまでの語りは、目をそらそすと視覚のぶんの欠落を補うように聴覚が敏くなってしまうことの表現だったわけですね。自分の舌や腸が発生させるかすかな音まで聴取してしまう。自らの体内に耳を澄ますことはやがて自らの過去の体験へと横滑り、それでも結局、絞首刑を連想させるような、職場の先輩との会話や、学生時代の懸垂下降のエピソードが蘇ってきてしまう。読み手がこのことに気づいたところで、これまでのなにげなく語られていた細部を読み返してみれば、

ゆりかごのうえでゆれるビワの実(p.91)

ネクタイのむすびをいつものプレーンノットからダブルノットにかえて、きつく絞め(p.94)

物体の自由落下運動は、鉛直方向の下むき一定の重力加速度gで加速される、などと、お立ち台に立つだれがおもい、だれがそのような「落体の法則」をおのれの目でかくにんしようとするであろうか。(pp.94-5)

など、どれも絞首刑と響きあうものばかりで埋め尽くされていたことがあらためて了解されます。ビワの実は人体の頭部に変じ、ネクタイの結び目は受刑者の首に食い込み、「落下の法則」ではなく「落体の法則」とわざわざ表記される。これ以降最後にいたるまで、さらに絞首刑がさまざまな「落下」や「懸垂」にかかわることばやイメージと響きあって、読み手のイマジネーションを刺激してやみません。「落下」や「落体」も、この語りが続いている刑場から(読者の頭のなかで)しだいに遊離し、罪を犯して身を落とすことへもつながっていく。作品の最後の最後、刑が執行されこもりうたのなかで永遠の眠り=死が到来するまで、一句たりともゆるがせにできない散文詩、あるいは極上の短編小説でした。短編でこんな作品が書けるのだからやっぱり芥川賞作家は偉大だなあ。
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