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黒井千次「紙の家」

出典:『文學界』2014年3月号
評価:★★★☆☆

コルタサルの短編に、着られそうでなかなか着られないセーターにひたすら悪戦苦闘するだけの傑作があります。そこでは何が起こっているのでもなく、ただただ「セーターを着ようとする(でも着られない)」の実況中継がくりひろげられるのみ。徹底的にナンセンスながらそのナンセンスが文章で過剰に堆積していきやがて飽和点を超えると癖になる笑いに結晶化します。読み始めは「なんぞこれ、意味ないじゃん」と思って油断しているんですが、読んでいるうちに作品のリズムにうまく読み手がはめられて癖になる感覚といえばいいでしょうか。もちろん僕はスペイン語は全く読めないので木村榮一先生の名訳によって楽しんだわけですが。

黒井千次による本作「紙の家」も、テイストは全く違うものながら、何か大きな事件が起こっているわけでもなくただ「彼」と呼ばれる男が、これまで出会ってきた人の名前を書きつけたリスト片手にぼんやり考え事をするだけの作品で、ナンセンスという意味では通底するところがあります。

作品内容と密接に結び付く文体の特徴として、茫洋さがあげられます。名前とその名前の横に記してあるワード(書きつけた時点ではその人物を思い出すための符丁として機能していたかもしれぬもののもはやそのことばが何を表しているのかすらわからない)を「彼」が目にしても、「誰だったか」「どんな人だったか」を全員が全員はっきりとは思い出せない。しかも「彼」は手帳のページをひたすら繰っているだけなのでアクションらしいアクションもありません。短編の目的地も明確にはされない。

 どれほど長い間自分がそのルーズリーフ形式のノートを使っているかをあらためて考えることはなかったが、ページの中にはペンで横線がしっかり引かれて抹消された一行もあり、反対に薄い鉛筆の字で欄外に遠慮がちに書き加えられている一行もあり、そこに収められている内容にはかなり流動的な気配のあるのが感じられる。(p.19)

内容というよりはそのメッセージ内容がほとんどないものを、そのメッセージがどういう状況で発信されているか(上の例でいえばリストアップされた人の名前の書かれ方)、メッセージの文脈にフォーカスして叙述が進みます。「彼」の想起する力も、パソコンがデータベース検索で探索ワードにバシっといきつくようなものではなく、いかにも思い出したくても思い出せない霞がかった曖昧さ、手探り感満載のもの。なので、読み手によっては「だからなんなんだ」といいたくなるかもしれません。

けれども、なんといえばいいか「だからなんなんだ」という問い自体がこの作品の前では無効になってしまうんですね。堂々と「なんでもないんだ」と言い返されているような気にさせられる、無意味の壁のまえにただ佇んでいるような感覚にさせられる。もちろんその意味のなさに堪えられない読み手はページを閉じて壁の前から早々に立ち去ることも禁じられてはいません。僕はこの意味のなさ、コルタサルに比べれば笑いやユーモアや風刺めいたものもないのだけれど、漠然とした「彼」の記憶の道行を、「彼」とともに一歩先も見えない、どこに向かっているとも分からない足取りで進んでいくのは苦痛ではありませんでした。漠然としたものを漠然としたまま読ませるというのはこれはこれで書き手の力量の賜物だとおもいます。上の引用部にしても「流動的」とか「気配」とかさらに「感じられる」ということばによって、茫洋さに拍車がかけられている。「抹消線」も引かれているし、書き込みは「薄い」字で「遠慮がち」というのも、とらえどころのなさを演出しています。

茫洋さを味わう別の例。

 ここでも、記されている相手が誰であったかを確かめるための注記というより、何かの理由で印象に残っている当人の名前を確認するための手がかりとなる注が括弧にくくられて示されているらしかった。したがってこれは、単に他人の姓名とか住所とか電話番号とかを記載して貯蔵し、必要に応じて引き出すためのノートではなく、過ぎた時の中を影の如く揺れて動いている人物の名前や住所を確認するためのノートと考えられた。(p.21)

デジタルな知識ではなく、アナログな記憶。それは上の、若干文学くささも感じられる修辞のことばでいえば「影」のようなものとして、人の頭の片隅や、指先の触感にそれと名指せないまま宿り続けるものかもしれません。

やがて彼の指が開いたのはいわば任意のページであり、自分がなぜそこをめくり当てたのかは彼自身にもわからない。他と違うところがなにかあるわけではなく、開かれた左右両面にそれぞれ十名ほどの名前がおとなしく並んでいる。そして気が付くと、なぜか注記のあるのは左ページのみであり、反対の右側にはただ名前と住所と電話番号が収められているだけだ。試みに上から辿ってみる右側の名前はどれもそれなりに記憶の針にかかるものばかりであり、二つの名前が鉛筆で薄く消されているのは、移った住所がわからなくなったか、それを追う気持ちを失ったかであろう。(p.23)

明確な目的意識なく指先の感覚に導かれて任意に開いたページの先で、記憶の定かでない人の名前と出会う。それは現在の「彼」がかすかに想起できるものもあれば、そうでないものもある。現在思い出せないだけでなく、過去のある地点においてすでに、その「名前」をもつ人にたどり着く道筋は失われている。

忙しい人は本作を読んでも腹が立つだけかもしれません(あるいは途中で読むのをやめてしまうか)、そしてどういう反応であろうと読者に禁じられている読みはありません。しかし、ビジネス書や自己啓発本ではなく、あえて小説を、それも貴重な余暇のいくぶんかの時間を割いて手に取っているのなら、別にお話らしいお話がなかろうと文字を読むことだけにつきあってみる、そういうぜいたくな時間を味わい尽くしたいものだと、僕は本作を読んであらためて思いました。

(追記)コルタサルのセーターの話は岩波文庫『遊戯の終わり』に「誰も悪くはない」というタイトルで収録されています。訳は木村榮一。どの短編も面白いので短編好きの方にはぜひご一読をおすすめします。
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