スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

磯憲一郎「見張りの男」

出典:『文學界』2012年7月号
評価:★★★☆☆

ある時期まで磯憲一郎の小説を読めませんでした。もっと正確にいうと磯作品をうけいれるだけのキャパシティというか、読み方が私の中に備わっていなかった。でもひっかかりは残りつづけて、時機がくれば読めるようになるのだろうとおもってとっておいたところ、いくつかのとっかかりができて読めるようになりました。

理解の助けになったのは、ひとつはカフカを通過しているのだろうということ。保坂和志との対談でもなんどかカフカや小島信夫のことが話題になっていたと思いますが、そうであればカフカを読むように磯作品をよんでみようという、読みの方向が見えてきました。さらに、蓮見重彥の批評で「そこに書かれている言葉が、その言葉以外の何ものをも指示していない」ということばにであったとき、ああこれで読めるや、と思ったものです。蓮實先生の批評は、「随想(十)」『新潮』2009年10月号を参照のこと。

つまり小説を通して、とか小説によって、その向こうになにか現実の対応物とか教訓を見いだそうとするのではなく(最終的にはそうであっても問題ないのだけれど初めからそのつもりで読もうとするとたぶん挫折する)、小説に書かれてあることそのものをそのまま受け取ることが、磯憲一郎を読むときの決定的なポイントです。

夜、山頂から見下ろすと、平地には青白く照らされた粗末な小さい家々と水田があった、黒い水面には満月がその細長く歪んだ姿を晒していたが、空のどこを探しても月そのものを見つけることはできなかった(p.53)

月は磯作品でもよく出て来ますが、本作でも上のように表現されています。このように表現される情景を現実のなかに探そうとしても無理です。だって、水面に月がうつっていながら、空にはどこを探しても月なんてないのだから。あたかもこの作品と現実との関係についてメタ的に言及している箇所ともとれます。だからここはそうではなくて、この言葉そのものを語る物語行為に身をゆだねたときに初めて、面白さがわかるのだなと(すくなくとも自分はそうでした)思います。さらにいえばこの一節とってみても、現実的な対応物を探しても無駄であるかのようにいくつもの屈折が仕掛けられています。水面なのに黒い、黒いはずなのに満月が映っている、満月なのに細長い、という風に。

ですので次のような箇所も同様の仕方で読めばいいはずです。

他には誰もいない板張りの部屋、たった一つの白熱灯の下で、自分の身体より大きなチェロを懸命に弾く白髪の老婆の姿が浮かんだ、老婆は季節外れの厚手の黒いセーターを着て、同じ黒の長いスカートを穿いていた。それは彼の母の姿であり、彼じしんの姿、そして私の姿でもあった。じっさいには彼の身体はまだアパートの自室にあって、視線は誘蛾灯の光に固定され両手両足を伸ばしたまま立ち尽くすばかりだったのだがそれにしてもこんな田舎町で、夜中に楽器を、しかもチェロを弾く人などいるものだろうか?(p.61)

大人向きの、ビターチョコレートのような作家だなと思っています。読むだけで、というより読むことのなかにだけ楽しみが宿る、そんな作家です。
スポンサーサイト

コメント

Secret

プロフィール

読む人

Author:読む人
小説の感想を、自分基準で。コメントはご自由にどうぞ。

★☆☆☆☆(面白くない)
~★★★★★(面白い)で評価。

最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。