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澤井繁男「若きマキアヴェリ」

出典:『文學界』2012年7月号
評価:★★☆☆☆

いまも人気の『君主論』執筆時のマキャヴェリが、若き日に見聞したフィレンツェと都市をとりまく政争、戦争を回想する小説。そこで出会った人々が『君主論』にどのように結実していったかが見ものです。

マキャヴェリの眼を通して、メディチ家の人々や宗教改革者、芸術家などが描かれるんですが、これがなかなか作品世界にデタッチメントな態度です。このへん作中のマキャヴェリも自覚しているような感じもあるけれど、例えば「アマデウス」の中でモーツァルトをまなざすサリエリが、嫉妬、羨望、驚嘆、敬服などあらゆる感情をないまぜにして目の前に体現された音楽の天才を終始見続けるのとは対照的に、このマキャヴェリの視線にはそういう個人的な感情はぬきに、とてもスコラティックに周辺人物の批評をしてゆくので、なんというか教科書の用語・人物解説集を読んでいるような気持ちにさせられてしまいました。

書かれてあることは間違ってないし、フィレンツェ内部の政治状況やイタリアをめぐる国際政治の布置にも歴史的な事実誤認はなさそうである一方、その解説に終始していてこれが小説として読まれる醍醐味みたいなのが今一つ感じられませんでした。もちろん、感情移入こそ必要だとか、人間を描くべきだ、みたいなナイーブなことは言うつもり毛頭ないですが(感情移入を拒絶する小説、人間を極力描かない小説でも傑作はいくつもあります)、この作品の場合、歴史的事実や解釈をここで書いておいて、そこからもう一声、というものがありません。

作中で、若き日のマキャヴェリとボッティチェリが対話しますが、

「そうとも。ギリシア語習得がはじまった十四世紀末からやっと原典の翻訳が盛んになった今世紀の半ば以降、この国は確実に変わっていった」
「わからないでもないですが」
「じっさいに身を置いた者でないとなかなか理解しがたいであろう。かのフィチーノ師によってギリシア語からラテン語に翻訳された、『ヘルメス文書』、新プラトン主義者のプロティノスの『エネアデス』などの反キリスト教的な文献の数々。斬新だった。特に『ヘルメス文書』は世界最古の書で聖書より旧いというのだから、絶大なる信頼を寄せたものだ。君も知っての通り、いまの時代は旧いものほど価値がある、という思潮が主だから。根本は太陽崇拝だよ。それに生命をきわめて重視して、神をいのちと見立てて、神は細部に宿れり、と、いのちの連鎖を旨としている。わたしも、ヘルメス思想を絵画として表現しようと努めた。この思潮は、多神教の世界でこそ描きやすかった」(p.122)

といわれたところで、そうですか、としか言いようがない。教科書的な、けして間違ってはいないのだけどおもしろくもない解説を登場人物に語らせているだけと言ってしまいたい誘惑にかられます。だからどうしたんだ、という。マキャヴェリに興味のある人、この時期のイタリアに興味のある人、歴史小説や人物列伝がすきな人、向けの小説ですね。僕はあまり面白くは読めませんでした。

この書き手にしてこの小説ありというのはよく分かります。ただ書き手の学者的態度が前面に出すぎている感じを受けました。アカデミズムで争点となる正確さ、正しさは、小説のスケールを小さく切り詰めてしまうものにしかなりえないのでしょうか?
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