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庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」

出典:庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(中央公論新社・中公文庫・1995年)
評価:★★★★★

永遠の18歳というとやはり薫君じゃないでしょうか。庄司薫、実年齢はもう75才です。脳内イメージは、黒の徳利のセーターを着て微笑んでいる著者紹介のまんまですが、どんなお姿になられたのか。

久々に読んでみましたが、やはり傑作です。薫君のイメージとともに古びない、どころか作品のほうはますます力を増している気さえします。日比谷高校の「いやったらしい」エリート文化を描いたところには、ひとことでは形容できない、まさにこの作品一作をかけてでしか語られなような複雑な感情が何重にもおりたたまれています。その複雑な感情を語るには、この軽妙な語り、ただし問題から逃避しているのではなく、また借り物の言葉をまとうのでもなく、あくまで自分の言葉で実感をこめて語ろうとする真摯さが要請されたのだと思います。いつまでたっても「青春文学」と呼ばれるのはひとえに、薫君の語りの真率さ、まさにその一点にかかっている。

そしてこの作品が現在でこそ読み直されるべきだ、と僕がおもうのはやはりいま僕たちをとりまいている文化状況があるから。東大の学生運動がピークをむかえ、かつ下からは大衆化された世代が押し寄せてくるという、薫君たちの板挟み状況は、まさに戦前の教養主義の最後の煌めき、とでもいっていいようなかけがえのない時代で、それ以降は、感受性の人一倍鋭い芸術派の大将・小林が感じていたような得体の知れない脅威にワーッと呑みこまれて行ってしまう時代が到来してしまうわけだけれど、現在何が残っているかというともう圧倒的な大衆のパワーのまえにあらゆるものがこきおろされてしまう、そういう寒々しい状況が広がっているという。

薫君なり小林なりの文化オムニボアが真の意味で輝けた最後の時代をこの作品で振り返るのは、しかし単なるノスタルジーではなくって、あくまで「それでも何とかしなくては」という勇気づけを与えられるから。一度っきり軽く読み流す程度だと、「いい時代もあったもんだ、それもこれからは無くなっていく、あーあ」というくらいの嘆きにしか受け取られかねないけれども、やはりタイトルにもあるように「赤ずきんちゃん」を求める少女に、生爪の剥がれた左足親指の激痛をこらえながら笑顔を振り絞るその精いっぱいさ、そここそが本当の読みどころのはずです。様々な悪意、嘘っぽさ、偽善、詐欺、軽薄さ、あらゆるものが渦巻く世の中で、それでも歯を食いしばって立ち向かう薫君の姿は、もう今では手遅れじゃないのかという疑問も一方では抱きつつそれでも、僕に一すじの光を見せてくれる大きな指針となっています。

青春文学とはいわれつつ、この作品は今の十代には十全に通じないだろうなあ。ある程度年齢がいった人、あるいは現在のお寒い状況に歯噛みしている人こそ、読んで心を動かされる作品だとおもいます。

以下、気になったところメモ。

つまり田舎から東京に出てきて、いろんなことにことごとくびっくりして深刻に悩んで、おれたちに対する被害妄想でノイローゼになって、そしてあれこれ暴れては挫折し暴れては失敗し、そして東京というか現代文明の病弊のなかで傷ついた純粋な魂の孤独なうめき声なんかあげるんだ。もちろん中島でなくったっていい。つまりなんらかのおおいなる弱味とか欠点とか劣等感を持っていてだな、それを頑張って克服するんじゃなくて逆に虫めがねでオーバーに拡大してみせればいい。しかもなるえくドギツく汚なく大袈裟にだ。小説だけじゃないよ。絵だってなんだってみんなそうなんだ。とにかく売りこむためには、そして時代のお気に入りになるためには、ドギツく汚なくてもなんでもいいから、つまり刺激の絶対値さえ大きければなんでもいいんだ。そしてそうなりゃもう誰だって、ほんとうに美しいもの、花とかさ、そういったなにか美しいものを見せるよりはズバリセックスとか汚ないものとかをそのままどうだとつきつける方が早いに決まってる。そしておれはね、そういういわば絶対値競争にはもう全く自信がないんだよ。それからおれは、そんなあさましい弱点や欠点暴露競争にも参加する気にはどうしてもなれないんだ。つまり資格がない、全然もともと資格がないんだ。(中略―引用者)これじゃあ狂気の時代になるのは当たり前だ。つまり昭和元禄阿波踊りだ。そして踊らにゃ損々なんだ。おれはもう何もやる気がしないんだ。おれはね、おれはさ、日比谷に入って初めて卒業生名簿を見た時、白状するとすごく嬉しかったんだよ。まあ、どうでもいいことだけど、夏目漱石だとか谷崎潤一郎とか小林秀雄とかズラズラいてさ。それで、おれは漱石が大好きだからさ、これも何かの縁だ、おれはきっとあとを継いでやろうなんて思ったりしてね。でも、もうだめだ。評論家になってそんな時代を叩っきる気さえしないんだ。同じ小林でも秀雄大先輩とは時代がちがうんだ。阿波踊りのどまん中でモーツァルトを、いやワグナーをきかせたって、それがいいものだって言ってみたって、そんなのはそれこそナンセンスに決まってるんだ。(pp.120-2)

上の引用は、薫君に涙しながら愚痴る芸術派の総帥、小林の内面告白。庄司薫じしんが、実は自分が日比谷で過ごしたときは、薫君というより小林のような存在だったといっていることからすると、この小林のことばは、書き手の庄司薫のことばとして受けとりたくなる誘惑に駆られる。そして上の引用で非難されているのは、関西からの越境入学者中島の、劣等感に開き直っている点(そしてそれは中島個人の問題ではなくもっと多くの人に共通する問題のはずだ)だが、そういうドギツイ「下劣さ」を武器に文学界に殴りこんでいったのが村上龍だとすれば、その開き直りのパワーを目の当たりに感じた小林=庄司薫はもう四面楚歌になる以外なかく筆が止まってしまうのかもしれない、というところまで妄想を広げたくなる。村上龍の書き散らす小説の、どうしようもないスノビッシュな芋臭さ、読者をバカにしたようなサービス精神が、嫌悪感半ばしつつもウケてしまう世の中なのだから。

彼らの果敢な決断と行動、彼らと行動を共にしないすべての若者をすべての人間を非難し虫ケラのように侮辱するその行動の底には、あくまでも若さとか青春の情熱といったものが免罪符のように隠されているのだ。いざとなればいつでもやり直し大目に見逃してもらい許してもらえるという免罪符が。若き日とか青春といったものを自分の人生から切り離し、あとで挫折し転向したときにはとかげの尻尾みたいに見殺しにできるという意識が。もともと過去も未来も分けられぬたった一つの自分を切売りし、いつでも自分を「部分」として見殺しにできる恐るべき自己蔑視・自己嫌悪が隠されているのだ。でもぼくにはそんなことはできない。ぼくだってもちろんこの現代社会が明らかにウサンくさくそして大きく間違っていることを知っている。だからぼくだってそれがどうしても必要だと分ればいつだってゲバ棒をとるだろう。それが自分だけのためではなくみんなを幸福にするためにどうしても必要であり他に方法はないということが、誰でもなくこのぼく自身の考えで何よりもこの胸で分った時には。でもその時にはぼくは、ただ棒をふりまわして機動隊とチャンバラをしたり、弱い大学の先生を追いかけたり、そしてそのことだけでも問題提起になるなどと言い訳めいたことは言ったりせず、しかし確実に政府でも国家権力でもひっくり返すだろう。やれるだけやればいいなどと言っていないで、ちょうど由美を襲う暴漢の息の根を確実にとめるように、必ず絶対に、あらゆる権謀術数、あらゆる寝わざ裏わざを動員して、時には素早く時にはずる賢くそして時には残忍極まる方法を使ってでも、確実にぼくのそしてみんなの敵を、それが政府だろうと国家権力だろうと絶対確実に倒し息の根を止めるだろう……。でもこれは明らかにぼくの捨て台詞だった。(pp.138-9)

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コメント

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同感です。

ライ麦畑とすごく似ているけど、俗っぽさと知性の対立についてより深く踏み込んでいると思いました。60年代末ってテレビが普及した頃ですよね。しかし、今の高校生って何考えているのかなあ?案外こんなことも感じてるのかしら、、、、。そうあって欲しいです。

Re: 同感です。

コメントありがとうございます。

教養について考える余裕のある高校生は今も昔も都市部のエリート校の内部進学組くらいなものではないでしょうか。文化資本に恵まれてかつ有効活用できるコースにいますから。それ以外の真面目な高校生は都市部か地方かにかかわらず、「教養」の雰囲気にたいして漠然と敬意は持ってはいても、そんな遠くに目をやるよりまず目の前の受験勉強で手一杯だし、それをこなしていれば学校の先生も親も満足しているはずです。「教養」なんて、なくても死にはしませんしね(笑)。
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