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青木淳悟「江戸鑑出世紙屑」

出典:『新潮』2013年1月号
評価:★★★★☆

江戸のポップといういい方っていつごろからされているのでしょうか。文学作品のみならずあらゆる技芸の作品が引用によって成り立つなら、江戸の近世文化を取り入れることで現代の目に、ある種の異化効果をもたらすことは結構ポピュラーになっているのかもしれません。文筆家なら、石川淳が江戸留学したり、野坂昭如の語りが井原西鶴と比較されたり、他分野なら山口晃の浮世絵アート、会田誠の「巨大フジ隊員VS.キングギドラ」なんかをパッと思い浮かべられます。江戸の資源を使いながら現代の人にもうける作品には、どこかしら過去のものなんだけど過去のものとはおもえない現代性、時代を超えた普遍性みたいなものを巧く演出する力があるということでしょうか。アーティストのセンスの問題かしらん。

そして短編作品ながら、この青木淳悟の「江戸鑑出世紙屑」は黄表紙や滑稽本のエッセンスをぎっしりとりこんだ現代の小説として面白く読めました。古いものを新しく解釈させる、両方の時代をつらぬく普遍性として、ここでは「滑稽」がとりあげられているのかなと思います。とくに赤塚不二夫のマンガにインスパイアされているように、ナンセンスの滑稽を。

文体というか書かれるテクストの意匠として、くの字点や庵点を用いたり、台詞の頭に発言者の名前を書き入れるテクニックは一見江戸っぽいですが、その一方でたとえば台詞の鍵括弧を閉じている(これが定着するのは明治にはいってしばらくしてからです)など現代の書記方式に従った書き方もなされています。「時代考証ちゃんとしてないじゃないか!」と怒り出すのはお門違いで、現代の読者にむかって書かれているのだからこれは現代の読者が読んで楽しめれば、古い意匠を忠実になぞっていようが、それっぽく擬態していようが、どっちでもいいのだと思います。

そして、お上(堅苦しさ)をバカにしてひっくり返す秩序転覆の言語モードが滑稽の本質だとすれば、その物騒さを現代の読者に接続するために、赤塚不二夫を引いてくるのはこれまた素晴らしいセンスですね。…といいつつ赤塚不二夫がわかるのは現代でいえば30歳以上の人でしょうか。もっと上か。

どぜう犬「江戸市長がまたタヌキなんだってな、ヱヽ、なに、御一新はねえのさ」(p.10)

阿太郎「コンニャロメー、八百屋の頓痴気ィ」(p.12)

他多数。江戸の意匠をまといつつ赤塚不二夫を参照して現代の閉塞感を笑い飛ばす滑稽味、諧謔味、これが書けてしまう青木淳悟のセンスに脱帽です。短い短編ですが密度は非常に濃くしかも最後まで笑える、7コマ漫画でした。

ちなみに、同号の新潮では、杉本博司「能 巣鴨塚(修羅能)」という戯曲(でいいのかな?)も掲載されています。これも「能」という文化的資源を利用した作品ですが、「江戸鑑出世紙屑」が現代の読者に向けて書かれているのに対して、この「能 巣鴨塚(修羅能)」は誰に向けて書かれているのでしょうか。

皆様、ここからは私が漢詩を現代語に訳して皆様にお聞かせいたします。昔は、日本人で教養のおありになる方々は、こちらの板垣様のようにみなさま漢詩を読み書きなされておりました。が、今では戦後民主主義教育のおかげ様で、漢文はちんぷんかんぶん、になってしまいました。(p.250)

ここには読み手をバカにしきった、書き手の排他的な意識しか読み取れません。『新潮』2013年1月号を手に取る読者のほとんどが、戦後民主主義教育でしょう。だいたい戦後民主主義教育という一語で70年近くつづいてきた学校教育を一括するのも雑な知性を露呈していますし、そういうわりにはこの戯曲じたいが新仮名遣いで書かれているしわけがわかりません。その読み手にむかってなんでわざわざこんなことをいうのか。そもそもなぜ板垣征四郎や東条英機の記憶を今、能の形で演じる意味があるのか。「能 巣鴨塚(修羅能)」は、そこが全く見えてこない駄作でした。
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