スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

円城塔「これはペンです」

出典:『新潮』2011年1月号
評価:★★★★☆

年末で本の整理なんかもしているので売るか押入れの奥にしまうかする前に読み残しているものにはざっと目を通しておこう三作品目。これは再読になります。

そういえば数日前に急にこのブログにアクセスがふえてどうしたことかと原因を推測してみるに、第150回芥川賞の候補作が発表されたんですね。木下古栗「新しい極刑」は入れてほしかったですが、こればっかりは文藝春秋の興行に関わる人の見識にはかなわなかったようで仕方ない。あるいは覆面作家ゆえに候補に挙げられるのを辞退したか。この作家はもう、いったん外国で売れて逆輸入で日本に上陸、外圧によって日本の読者にその名を認知される的な方法でないと広く届かないのかなあ、なんて溜息ついたりもしています(笑)。諏訪哲史とは違った経路から峻険なマニエリスム文学の山にアタックしている現代文学サイボーグだと思ってるんですが……。うーん。

さて、今回の候補作(者)のなかではどの作品(人)が受賞するのか楽しみですね。僕は意欲的に書いている松波太郎応援です。岩城けいは小説として面白く読んだものの直木賞とか、新潮クレストブック的なテイストじゃなかろうか。まあこれも関係者の見識です、見識。

そして本作、円城塔の「これはペンです」。この作品の周辺から語れば、作中のDNAに関する記述について選考委員の村上龍からダメ出しがあって、他の選考委員のなかには丸をつけた人(池澤夏樹・小川洋子・島田雅彦)もいたようですが、結局受賞はしなかった作品です。村上龍本人による「DNAに関する記述が不正確だ」「通常の物語とは違う文学世界を作るときに、ディテールで間違うと決定的だと言った」発言はここで確認できます。

【村上龍RVR龍言飛語】vol.223 芥川賞、受賞作はなし (注意:音が出ます!)

後日談として、この発言にたいし円城塔とその周辺の人が、「どこが間違っているのか」について質問をしたという情報もネット上にはあるんですが、その一次情報ってどこにあるんでしょう?『文藝春秋』か『新潮』に公開質問みたいなかたちで載ってるのかもしれませんが、ざっと見てみた限りだと見当たりませんでした。

そんな作品ですが、僕は面白く読みました。ストレートに、素朴にこの小説をうけとるなら、ヘンテコな研究開発にいそしむ叔父から姪のもとに手紙でメッセージが届けられ、その内容や送られてくるものについて姪が読解していく物語、といえます。全篇が手紙というわけではないので書簡体小説のくくりには入らないかもしれませんが、現代の書簡体風小説とはいえるかもしれない。

ただ、上で要約するときに「ストレートに」とか「素直に」と書いたように、うがった読み方も許してくれる──むしろそういう読み方を誘っているように僕には読める──柔構造がこの作品のいたるところに仕掛けられていて、それがこの作品の魅力と懐の深さを示しています。たとえば一度も姿を現さない「叔父」は何者なのか、そもそも人間なのか。

叔父は文字だ。文字通り。(p.8)

とあり、むしろ姪が叔父の存在をこの作品の中で語り続ける限りにおいて存在を現すような、単なるひとりの人間ではない、「叔父」という言葉で名指されるなにものかに思えます。僕は、この小説は、姪と名乗る存在(こちらも人間にかぎりません)がひたすら書きあげた「これはペンです」プログラムであって、そのプログラムが読者の頭のなかでデコードされて初めて立ち現われて来る存在が「叔父」なのだと思えました。だからデコードの仕方によって、叔父は人間にも、紙の上の存在にも、ブルバキのような研究者集団にも、DNAのように集団の中で伝達されていく単なる情報断片にも姿を変えることができる。小説ではなく現実の世界でも、キヨシ・オカが数学者集団のペンネームとしてうけとられたという伝説もありますよね(笑)。

穏当な小説だと「叔父」なんていわずにもっと一般読者フレンドリーな比喩表現、あるいは固有名詞で、その変幻自在さを表現したのかもしれません。そこをあえて、この読者参加型の存在の呼称を「叔父」としたところに、読者の頭を混乱させる円城塔の目論見があった、そんな風に思います。

マッドサイエンティストの壮大な実験は最後に究極の破滅を迎える、は物語の定番です。本作の叔父は間違いなくマッドサイエンティストの部類に属する存在ですね。姪が叔父から手紙を必死で読んでそのメッセージをやっと解読したり、姪の母が叔父さんのことを理解できないように、叔父は人知を超えた存在です。だけど叔父からのメッセージを読み取ろうとする者にとっては確かな手触りで存在しはじめる。しかもとってもチャーミングな仕方で。

「親愛なる叔父さんへ
 人騒がせを有難う。でももう危ないことはやめて下さい。わたしがメッセージに気づかなければ、叔父さんはテロの容疑者として逮捕されていたはずだから。
 叔父さんの素人探偵としての見解は、現在FBIが調査中だそうです。メールにこんな突拍子もない単語を書かせるのはやめて。
 もう、本当に危ないからやめて下さい。フォート・デリックから流出した炭疽菌のDNAパターンの一部をスクラッチするなんてことは。炭疽菌のDNA単体が人間に感染したりしないことをわたしは知っているけれど、国家の安保に関わる人たちまでが、細かな生物学的知識を常識にしているとは考えないで。書かれるべき文字を知っているなら、誰でも文字を記すようにしてDNAを組み上げられると知っているとは思わないで。(後略──引用者)(pp.34-5)

「姪:君は一目で見抜いたろうから、まず検査の手間は省いておこう。この手紙のルミノール反応はプラスだ。わたしは自分の血でこの手紙を書いている。出血は少なくないものだったが、命に別状ないので安心してくれてよい。流れ出るままにしておくのも何やら勿体なかったのでこうして使っているだけだ。落石に巻き込まれてね。下敷きになりかけた。パワーショベルを使っていたんだ。岩を積むのに熱中してしまってね。文字をスプレーで書き殴った岩を積むのに。挙句、この体たらくだ。折角積んだ文字たちも崩れてしまって使い物になりはしない。文字通り、文字に潰されかけたよ。こうしてまた積み直しているわけだが、やはり片手で運転するのは辛いな。今回はここまで:叔父」(pp.36-7)


こうして叔父の実体は一度も登場しないまま、姪は成人します。

 成人したわたしはそろそろ、叔父との付き合いを減らす時期にきたのだと思う。わたしはそう遠くない未来のどこかで、わたしの中の女の子について記す道具を探し始めることになるはずだ。それはきっと、多分おそらく、いや一体、どんな形をしているだろうか、わたしは今それを考えている。
 それは叔父ではないはずだ。
 それはもう、こんな文字ではいられぬはずだ。
 たとえそれが、あなたの目には文字なのだとしか写らなくても。(p.49)

マッドサイエンティストのありきたりが「最後に失敗」だとすればこの小説はそのありきたりをうまく裏切っています。叔父さんのプロジェクトが姪に引き継がれることによって、失敗は先延べされる。

叔父さんから届いたメッセージは、「わたしの中の女の子について記す道具を探しはじめる」ことになった時点で、暗号→読解の煩雑な迂回路を経ることなく直接、姪の体内に流れる血となって姪に生きづき、姪を「叔父」の位置に据え付けます。それはさながら叔父が、病原菌やウイルス、あるいはDNAであったかのように。「叔父」というたった漢字二字のことばから、その慣習的な用法を離れてさまざまの意味を汲みつくせる適性がある読み手は読了後、きっと姪=叔父に感染(遺伝)していることに気づくはずです。

本作読了後、あなたの手はしっくりくるペンをさがしはじめましたか?

堀江敏幸「その姿の消し方」

出典:『新潮』2014年1月号
評価:★★★★☆

『新潮』で堀江敏幸が書いている詩人アンドレ・ルーシェもの(正確にいうとルーシェを追う「私」が語り手の小説)は断続的な短編連載ながらまいど楽しみにしている読み物のひとつ。清流のような文体とでもいいのか、文章の流れに身を任せて読み進めていって終わるころにはすっきりしている自分に気づく、読む過程そのものが楽しい作品です。

「残された資料の少ない物故詩人の作品と生涯を追う」という物語の主軸が、テレビ的な人物ドキュメンタリーとは全く違う小説的なことばづかいで展開されます。語り手の日々であう人たちや見聞する事物の世界と、言葉の世界とを行ったり来たりする筆遣いの自由さに魅了されっぱなしです。具体的な世界と抽象的あるいは記号的世界を無理なく行き来する書き方は堀江敏幸独特のものですね。

モグラのように生きるという言い回しは珍しくないけれど、出不精のモグラとはまことに重言的で興趣に富むと感心して先を進めると、どうも意味が通らない。そこでひとしきり雑談をしたあとその本の該当箇所を指さして見せると、モグラじゃないわよこれは、あなたの読み間違い! と彼女は大笑いした。なにをどう思いこんでいたのか私は「部隊(トループ)」と「モグラ(トープ)」を読み違えていたのである。塹壕を掘り、そこに砲弾が落ちてといった物語のなかで、モグラを使う慣用句がしっくりくる節々があったのだ。(p.142、カッコ内は原文ルビ)

外国語の読み間違いが文章に思わぬ意味を生み出す瞬間。堀江敏幸かその知人かで実際にあった話を下敷きにしているとしか思えない面白い読み間違いです。そしてモグラネタがじつはここ一つだけではなくてこの短い作品のなかで折にふれて顔を出す。

液晶画面で出来映えを確認すると、狭い高架下の喫茶店のいちばん奥の穴倉にもぐり込んで身を寄せ合い、笑みを浮かべた二匹の中年モグラが写っていた。もぐり込むという言葉には、モグラの音がくぐもりがちに響いている。(p.143)

モグラの顔の出し方も全く不自然にはなっていない。「詩」がひとつの重要なモチーフとなっている作品なので、一つのワード(今回はモグラ)の周りを自由連想のようにつないでいかれてもそれほど唐突感はありません。むしろこの論理が飛躍しつつも音やイメージではしっかりと繋がっているところは、小説というより詩を読んでいるような感覚にさえなります。堀江敏行のこの巧みな語りまわしは、ルーシェもの連作で極まった観がありますね。そしてモグラネタはとうぜん在りし日のルーシェの姿へと繋がっていく。

村はずれの戸建てに籠って会計検査の仕事をこなしつつ、レジスタンスではモグラもどきの活動をしていたルーシェの姿を、私はいつまで追いかけるつもりなのだろう(p.144)

この作品を読む場所は、すしづめの通勤電車とかゴミゴミした大学図書館ではなしに、ひとのまばらな公園とか緑のある屋外が最適でしょう。最終的に何枚ぐらいの作品になるのかわかりませんが、ずっと読んでいたい気もするし、一方では単行本になったものをまとめて、早いうちに再読したいという気もします。

荻世いをら「宦官への授業」

出典:『文學界』2013年12月号
評価:★★★★☆

正の数があれば負の数がある。実数があれば虚数がある。何事にも反対あるいは裏がある。本作を読みおわって抱いた感想はこれでした。一種の論理操作のように、Aを描いてから¬Aを描く、その執拗な反復で物語を動かしていく作品。読み終って圧倒されたので星5つでもよかったんですが、若干引っかかってしまったところもあって4つに。でも限りなく星5つに近いです。

本作は、都内の私大に通う学部生の天生目誠(あまなめまこと)が、死期の近い資産家で「幸福」と名のる老人に世界史の家庭教師として雇われる話を縦軸に、老人を取りまく人々から語られる老人像を横軸に話が展開していきます。老人と青年、なんだか通俗的な「いい話」に収れんしそうな予定調和感満々の設定ですがこの荻世いをらという書き手は常にありきたりを裏切って彼独特の世界を見せてくれます。実際、視点人物の誠にそくしてこの作品の開始早々

(誠は──引用者)言うまでもなくアルバイトを幾つか掛け持ちしており、やがてそれらは一つの仕事に収斂することになる──不幸にもその仕事とは、他人の陰茎探しのことで、つまりこの小説は陰茎をめぐる冒険譚である。(p.158)

いや、僕が下ネタ大好きだという好みは置くにしても、作品序盤で「失われた陰茎を求めて」とぶちあげられては食いつかざるをえません。タイトルにある宦官という単語が示唆するとおり、「あるはずの陰茎がない」話なわけです。この嘘のような話が、ときに前衛詩のような光る表現をまじえて書きつづられていく。一風変わった文章表現が小説に出てくる場合、作品全体にしっくりはまっていれば大成功です(単文では面白い文句であっても全体と響きあわなければちぐはぐな印象だけが際立ってしまう)。本作は、「宦官」とか「失われた陰茎」とかにわかには信じ難いモチーフを語るにはうってつけのシュールレアリスティックな表現満載。また表現の一つひとつが肉体的な感覚と結びついていて、言葉だけでうきたっていないところに書き手のセンスを感じました。たとえば誠が点字の読解を練習する場面

五時間近く指でなぞり続けた結果、誠は朦朧とする。横になったはいいが、眼を閉じると指を動かさずとも指から生じたイメージが勝手に動き出しはじめるのである。指から勝手に言葉が生えてくる、意味が生えてくる、その、感覚について彼はあまりにも無防備であった。指紋が目まぐるしく字に変わっていくのだ。指に言葉の繁殖する感じが脳の芯に直結する感じ、本来そこは繋がるはずないのに無理に繋げられ否応なく駆動する感じ、そのくすぐったさ、もどかしさ、その引き攣り、強引さが知恵熱を発生させないわけはない。次から次へと言葉が入れ換わる。(p.172)

指で文字を読むというのはこういう感覚なのか、こんな世界が指先から広がるのかと、目の前が開ける思いでした。指で文字が読めるようになると

誠は川端の点字版『雪国』を読みはじめる。幾度も読んだものだが、今度は違う。荒れ狂う孤独の吹雪を指先の暗闇で感知するのだ。(p.174)

僕は『雪国』を最後に読んでからもう何年も経っているので断定できませんが、『雪国』という作品のなかに荒れ狂う吹雪はでてこなかったような気がします。しかし「指で」読めば、眼で字面を追うよりも、描かれた情景の冷たさや風圧が倍化されるのかもしれません。

また作品の大きな柱として、Aと¬Aの共在がさまざまの形で変奏されます。本作の虚空の中心ともいうべき切り取られた陰茎にしても単なるそれではなく、

すると彼女は観念したように、幸福にはまだ陰茎が残っていると打ち明けるのだ。それが自分の予想していた通りのものだったことに誠はほくそ笑む。だが実際はそう甘くはなく、本当のところはむしろ彼の予想の反対、想像の斜め上のさらに上を行くものであった。つまり恐ろしいことに、陰茎が残っているのは幸福の脳の中だけ、幻肢痛という形で残っているのだと聞かされるのである。(p.197)

と、「あるはずの陰茎がない」はずの陰茎が(脳内に)ある、という裏返ってまた裏返るという状態で表現される(笑)。作品の細部においても例えば

二人はマクドナルドに入り、長い無言の会話の後、解散する。(p.208)

左から聞こえるはずのものが右から聞こえる。(その反対はない。)(p.212、カッコ内は原文)

などをはじめとして様々に、Aと¬Aあるいは対称性への配慮が徹底されています。そもそも漫然と読むだけだと意識しないかもしれませんが、本作の文体における文末表現は、単純否定や二重否定、あるいは緩叙法が頻出しています。作品のテーマが文体と呼応している見事なつくり。一方を肯定すると他方が否定され、一方を否定すると他方が肯定されるという趣向は最後の最後まで徹底しています。

 驚くべきことに、文字通り目に見える形で存在していた証拠が、そうは見えなくなった途端、その代わりとでも言わんばかりに幸福がこれまで語ってきた彼自身に纏わる物語が、見る見るその実在を現し始めるのだった。当然の流れとしてそれを皮切りに誠の中のあらゆるものが裏返ることになる。つまり陰茎が裏返り、性が裏返り、言葉が裏返るのだ。凸面から凹面へ。あるいはその逆のことが彼の中で起こりつつある。幸福の歴史が実体化し、さっきまで陰茎だったものが幻想と化している。点字に圧迫された指先のへこみが反転して突起し、さっき読んだはずの言葉が指先から生えてくるのである。(p.220)


これだけ書き手の意識が高く、かつテーマも文章も申し分ないんですが最後に引っかかったところを。過剰に文学くさいところ、そういう要素を僕は「お文学」と呼んでいるんですが、本作のなかにお文学的表現が散見されてもったいなく感じました。一箇所だけ例にとれば

言い古された表現だがつまりそれは、手術台の上でのミシンとこうもり傘そのものの出会いで、(p.221)

とあって、純文学雑誌を手にとるニッチな読み手ならこの比喩がロートレアモンの言葉だともちろん十分承知しているはずで、こういう作風の作品のなかにこの表現がでてきても書き手が分かってやっていることだと忖度できるはずです。が、「言い古された表現だが」という言葉には、書き手の衒いにたいする照れ、あるいは言い訳を読み取ってしまいました。そんな前置きするならいっそのこと書かない方がましです。それに、これだけの素晴らしい文章を緊張を保ったまま書きつづることのできる力の持ち主なので、こんな借り物の表現をここで照れながら引用するのならば、それよりもこの表現をうまくもじるとか、全く新しい表現に挑戦してみても十分勝算はあるはずだと僕は信じます。

日和聡子「かげろう草紙」

出典:『群像』2013年11月号
評価:★★★★☆

 虚屋敷漏(あきやしきもる)こと深谷弥惣介(みたにやそうすけ)は、日暮れ前から境内の一隅にて茣蓙を敷き、その上へ風呂敷に包んで持参したる自家製の草双紙を幾冊も並べ置き、所狭しと詰んで詰んで軒を連ねたる夜店の前をだりだり冷やかして歩く参詣人に、誰彼の別なく出来合の売り文句および口上を述べ立てて、「これこれ」「さあさあ」なぞ繰り返し呼びかけるも、これに答うる者さらになくて、店先にて足をゆるめてはやがて通り過ぎてゆくだけの客ばかりを幾らかは得た。(p.66、丸括弧内は原文ルビ)

冒頭からなにやら古めかしいことばづかいで作品世界が立ち現われる、日和聡子の「かげろう草紙」。深谷弥という草双紙作家が自分の書いた作品を手ずから店頭販売している場面が話の幕開けです。この出だしの部分だけだと「なんだか古めかしいな」とか「読むのめんどくさいな」といっていきなり読むのを止めてしてしまう読者もいるかもしれません。逆に「なにこれ、見慣れない。楽しい」と興味をひかれる読み手であればむしろ歓迎するのでしょうし、書き出しだけで損をしてる部分と得をしてる部分があるなあと思いながら読み進めました。もっとも、この作品に限っていえば多少見慣れない体裁であってもすこしつきあっていけばきっとこの作品世界に魅了されているはずです。読んで損はない。

詩を書く日和聡子だけあってことばの使い方、はたらきに自覚的なのが読んでいけば分かります。てっきり作品舞台を近世ものとしてうけとっていると裏をかかれる。次の引用は、深谷弥の店にやってきた客が、店頭の本をすべて買い取ると申し出、「三両はらう」と言った場面。

「あッ、その──、果たして両、両でもその、いいのかしらん? エー、一両……、はすなわち何圓? それをすばやく圓に換算すると──」(p.70)

とあって、両と円が同時期に使われている。ということは明治維新直後の状況なのか? と読み方を修正するもすぐにこの見方も変更を余儀なくされる。次は、深谷弥がお面屋さんに出向いた場面。

商品棚には藁や竹でこさえた笊のようなものに穴をあけただけに見えるプレーンなものから、木や土や石膏や紙や網や藁などさまざまな材料からできた多様な形状と表情と装飾を持つ御面の数数が陳列されていた。(p.74)

棚の端の方には、《SALE》と書かれた赤紙が貼られていた。(p.75)

おもわず《SALE》で吹きだしました(笑)。「プレーン」にしろ《SALE》にしろ、100年200年前の世界に、ふと現代的なことばが挿入されるとそのミスマッチが思わぬ効果を生み出すことがありますね。高橋源一郎『日本文学盛衰史』のなかに、横瀬夜雨(明治生まれの詩人です)がナイキのロゴ入りの車椅子にのって近所を爆走したという偽史エピソードがふと僕の頭をよぎりました。この作品も、ことばにまとわりつく時代性を意図的にハイブリッドすることによって、この作品のなかでだけ実現するリアリズムを成立させています。日和聡子空間とでもいえばいいんでしょうか。こういう意図を読み手が(勝手に)了解すれば、

「身体の大きな、御背の高い、墨と青の隅取りの入った白塗りの御面をかむっておられた、こちらの御店の御主人さんのことですよ。」
「あ? いや、ご主人、つうか、店主? つったら、自分ですが。」(p.76)

という軽い調子も難なく読める。これも引っかかりある人はやっぱりあるんでしょうけど、この書き手の創造する独自の空間を、一種の漫画のようにして読んでいくモードでよめば全然抵抗なく読めます。漫画原作になっていたっておかしくないですよ、これ。

しかし単に漫画原作になるだけでは小説として立つ瀬がありません。そこには漫画にかぎらず映画にしろ音楽にしろ他の表現媒体ではあらわせない(あらわしにくい)小説の特性がないといけない。本作では中盤あたりから、「書くこと」あるいは「語ること」についての哲学的なアイディアが展開されます。もっとも、肩肘張った議論やお説教臭い自説開陳であればその部分だけが作品から浮きあがって失敗作になってしまったかもしれません。しかし本作はそんな危惧とは無縁の、あくまでこの作品の面白おかしさを保ったままでのアイディア披露となっている。作品の舞台や登場人物の設定、アクションとうまく噛み合っているアイディアなのでそれが説得力を持っています。

深谷弥の草双紙が、文字通りに食べられている光景を前に、深谷弥はこんなことを思い出します。

「自分にとって、書を読む、とは、それは書を食らう、ということにほかなりませんですね。」と誰かが誰かの質問に答えてそう述べていたのを何かの記事で読んだ気がする(p.77)

食べているのはお面職人で彼が好む紙とは

紙は文字が書かれたものしか、召しあがりません。白紙だと味が足らないのでしょうか。

と、脇から注釈されています。たしかに僕たちはことばのうえで、じっくり本を読むことを、「味読」といったり、深い内容の本を「味わい深い」と褒めたり、下手な表現を「まずい」と形容したり、作品を作るまえの資料を「素材」と言い表わしたりします。ものを書くこと(読むこと)と、料理(食事)は相性のいい関係にあります。概念メタファー風に、WRITING IS COOKINGといってみたくもなります。

あるいは草双紙に代金として支払われた三両は、実は葉っぱであったことが判明すると、

「この葉っぱの裏に、こうして引っ掻いて金額を書き込む。それがその金額の価値を持つ。いわば小切手ですよ」
(中略──引用者)
「そんな馬鹿な話があるでしょうか。私は騙されているような気がしますが。」

というやりとりが繰り広げられます。古典的な仕方でつくられた贋金だったわけですが、この考え方も贋金を手掛かりとして「フィクションとは何なのか」に繋がって行きます。紙に書かれたインクのしみでしかない文字がつらなって、読み手に解釈されていくことで一つの世界が立ちあがる。それはいわば贋金をつかまされているようなものでありつつも、読み手はその贋金を喜んで摑みにいく。精巧に作られた贋金であればあるほど読み手は喜ぶ、そういう傾向がフィクションにはあります。フィクションとしての小説なんかよりもさらに強い形で、今を生きる人々の多くが信じているものが「貨幣」ですよね(紙や金属、あるいは電子上のデータにしかすぎない数字を、あたかも価値があるもののようにみなしてコミュニケーションが成り立っている奇跡を想起しましょう!)。こうかんがえてくると、貨幣と読書の関係にも重ねあわせて語ってみることで面白い鉱脈が見つかるかもしれません。

本作では、こうした言語表現の不思議さやフィクションの成り立ちについての洞察が、作品世界(参詣人でごった返す夜店、草双紙作家、御面作家、贋金)とうまくとけあって独自の表現たりえています。ひとつのまとまった洞察を、読者を圧倒するクオリティで提出するには分量的には苦しいものがありますが、日和聡子にはぜひこのクオリティで、書き手本人がへとへとになるまでさらに深く深く鉱脈を掘り進んでいって欲しいです。そうやって書かれた中・長編の登場を待ってます。ともあれ本作も、笑えて考えさせられるお見事な短編でした。ごちそうさま。

福永信「三姉妹」

出典:『群像』2012年7月号~10月号
評価:★★★★☆

小説らしくない小説を意欲的に発表している現代作家として、青木淳悟や福永信の名前があげられます。書き手たちにしてみれば「これこそ小説なのだ」といわれるのでしょうが、彼らの書くものを読んだ人の多くは「うん、小説ですね」と素直にうなずけはしないはず。そうするより先に「何だこりゃ?」と自分の前提、小説観を逆に照らし返されて混乱し、「ま、まあ、こういう作風もありだよね。これも小説」と分かった風を装って戸惑いまじりに自分を納得させるというプロセスをたどるんじゃないでしょうか。そうならないなら「こんなの小説じゃない!」といって読むのを途中で投げ出してしまうか。僕自身は正直にいえばこの二種類の読者の間を、青木作品なり福永作品なりを読むたび一作ごとに行ったり来たりしています。けれど不満は別にありません。少なくともありきたりの駄作で満足してしまわない挑戦的な姿勢は買っているつもりです。僕の読解能力が追いつけないときがあるだけです(笑)。

さて、今回の「三姉妹」は単行本化するにあたって「戯曲+ノベライズ」という別々の形式にわけて一冊の本に収められたようですね。僕の手元にあるのは「三姉妹」の初出となった雑誌版。これら四冊から想像してみるに、雑誌版で四回に分けて四兄弟が語るパートと同時並行的に作中ページに挿入された(のちに作品自体を侵食することになる)「今号のあらすじ」というパートが、ぞれぞれ「戯曲」と「ノベライズ」という風に分けられたのでしょう(間違っていたらごめんなさい)。連載作品は連載終了してからまとめて読むようにしているのでうかつでしたが、これは連載と同時によんでいくのが正解でしたね。

つい昨日感想を書いた船越素子「ひべるにあの巣籠り」のところで「僕は戯曲が読めない読めない」と書いたものの、これは読めました。雑誌版だと、この作品のどこにも(あるいは目次にも)、この作品のジャンルを「小説」とか「戯曲」とかジャンル分けする言葉がないんですね。ということは、意識してこの作品をいずれともつかない、いずれともとれる形式として発表しているのだということが分かります。よくよく読んでみれば、作品の初めに

 第一幕 タバコと貝について

 時──二〇一二年七月

 所──高台

長男 心を鬼にしていうが……どうかその手にもっているものを投げすててくれ。どうか、そのポケットに入っているものをいますぐ出しなされ。かくさないでいいから、おこらないから、どうか、その背中にまわした手を、前へ出してください。どこにもつながっていないのだからね、ほんとうは。どこにも、だれにも……
 だれにも伝わっていないのだからね、そんなものを、駆使したところで、なんにも。すべて独り合点なのだから……
 だから、なげすててくれ、どうか、そんなものと、そんな一人芝居からは。高価なものだからといって、ためらわないでくれ。いかにそれが人を蝕むものであるか、よく理解し、そんなものとはおさらばしてくれ。あらたな……
 あらたな出発をする気持ちで、これから再生するんだと、そういうこころがまえで、がんばろうじゃないか。みんなで、手をつないで、前を向いて、ひとりじゃないということを、確認して……(p.18)

とあって、「第一幕」のことばから分かる通り、戯曲形式に読めます。あるいは小説中劇か。もっとも、僕が読み進めていたときの意識は戯曲というよりは、フォクーナーのような、現実世界ではありえないような息の長い一人がたりが延々とつづく、どちらかというと小説形式のモードでした。

さて、この「長男」という語り手が「○○してくれ。○○しないでくれ。」とひたすら懇請する形式で語りかけてきます。こんな連発で懇請する語りって珍しいですね。小説ではなく詩集で、焼き捨てられてしまって僕の手元にはすでにありませんが、オノヨーコの『グレープフルーツ・ジュース』がたしか、「○○しなさい」という命令形だけからなる作品だったかと記憶しています。で話を「三姉妹」にもどして、この「○○してくれ」が延々つづく語りに辛抱強くつきあってみても、いったい何が起こっているのか、どんな人物が何について語りかけているのか一向見えてきません。これだけだと脱落する読者続出必至です。が、雑誌版だと同時に「今号のあらすじ」というかたちで、この語りがなされている背景、コンテクストが語られます。こんな感じ。

今号のあらすじ
 コミュニケーションの利便性を高度に追求した結果、人々は人間性を完全に喪失していた。二〇一二年七月、そのことを憂う口下手な四兄弟が立ち上がった。長兄は、多機能携帯電話を廃棄し、貝がらを耳にあてるよう訴える。そうすることで、人は心を鎮めることができるという。しかも、本来は聞きとれぬはずの声と交信することまで可能になり、それによって豊かな人間性を回復することができるというのだ。ただ、残念なことに、大人は貝がらを耳に当てる機会がめったにない。他方、子供は積極的に貝がらを手にし、それをごく自然に耳にあてる。(p.19)

正直、この「今号のあらすじ」がなければ僕は読むのを途中でやめていたでしょう。「今号」のあらすじで語られる内容で安心を手に入れるととたんにつかみどころのなかった長男による懇請が読めるようになります。そうか、この言い淀みや中断の多い語り口は「口下手」ゆえなのかとか、「投げすててくれ」と指示されているのは「多機能型携帯電話」なのか、とか。

あとを読んでいけば分かりますが、四兄弟のとくに長兄と次兄が中心となって、多機能型携帯電話と貝がらとを人々に交換させる話になっています。ちょっとしたSFっぽい筋立てになっていますが、SFというよりは一つの風刺寓話として読めますね。多機能型携帯電話でアプリにつかり自らを機械の末端化してしまう人間像があり、もう一方は貝殻に耳をすましそこに聞えないはずの音を聞き取ろうとする人間像がある。この二つの人間像に象徴される存在をもうすこしいいかえると、前者を「安心」に馴れきった受動的人間。後者を「不安」に耐えられる能動的人間。あるいは、レクトゥールとリズール。

実際、僕はこの小説の出だしからつづく、長男によるどこに向かっているのか見当もつかない懇請に「不安」になって、とてもこの作品を読み通せない、と雑誌を投げ出しかけたのでした。けれどもそんな僕に餌を与えるかのようにして、「あらすじ」があたえられ、そしてこの「あらすじ」によって読みを一定の水路に方向づけられた。そうされることによって、「いろいろ解釈したり想像したりして作品を楽しむ読者の自由」とひきかえに、「読み方を教えられて得られる安心」という禁断の麻薬にありついたわけです。家畜根性まるだしの、自ら進んで奴隷となる読者こそこの僕。自由からの逃走(リースマン)です。このあたりが冒頭述べた、自分の小説観を照らし出す作品という所以ですね。

さて、もう少しこの「三姉妹」全体のことを。結局この作品を強引に内容と形式に分けるとすると(そんなことはできないという原則論は百も承知ですが)、連載が一回目、二回目、三回目、四回目と進むにしたがって、兄弟の語りパートと、あらすじパートとの分量が逆転していきます。初めはその量からいえば、語りパートが主だったはずが、最終回にはあらすじパートが作品全体をのみこんでしまう。これについて風刺寓話風に僕なりに読み解いてみましょう。

近代小説の母胎は戯曲です。小説の世紀にはいって多数の小説を生むフランスにかぎってみても、ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』を例外的に早い事例とみれば、戯曲の傑作が生まれる時期のほうが小説のそれより先んじています。戯曲の隆盛から小説の世紀をへて現代へ。受容者も、王侯貴族から、新興中産階級(ブルジョワ)、インテリ、マス・インテリ、大衆へとどんどん広がって現代へ。

ということはこの「三姉妹」という戯曲とも小説ともつかない連載作品は、このひとつの作品のなかで、教養のある少数の選良が楽しむ戯曲・小説の時代から、ことばはきたないですが、アホでも読める大衆小説の時代へ、という数世紀を、圧縮して表現してみせた作品ともとれます。そして同時代作品としてこの本を手に取る読者の多く──「多く」というのはあくまで僕の想像でしかないですが──は、「あらすじ」のパートを与えられてやっと「安心」を得て満足し、カタルシスを味わう読者です。わざわざ貝殻を手にとって、そこに聞えないはずの潮騒をあえて聴き取ろうという苦労もせず、のうのうとあらかじめ用意された世界観を受容するだけで満足する読者(僕も含め)がここでは風刺されています。

こう単線的な歴史と重ね合わせてこの作品を語ってきましたが、しかしこの作品にはもうひとひねりあります。連載第四回目の「あらすじ」パートが全体をのみこんでから、それまで語ってきた内容が繰り返されるくだりがある。これも歴史とあわせて読んでみれば、「歴史は繰り返される」というおなじみの箴言に帰着しそうです。ということは、現在の読書界を覆う停滞した雰囲気(そこでは「面白い作品を!分かりやすいストーリーを!」の大合唱です)を払う/祓う時代が、またやってくるという希望が語られているのかもしれません。その希望を語るパートが「あらすじパート」だというのがなんとも皮肉です。そしてそんな時代の到来には僕自身、極めて懐疑的ですが。

自分の理解力を棚に上げて「何だか分らないけどこの作品好き!」みたいに言っちゃえる能天気な自己愛まみれの感想を臆面もなく吐きだす読者(「この作品が好き」ではなくて「この作品が好き、だといっている自分が好き」)を別にすれば、僕たちは福永信の「三姉妹」という挑発的な作品を前にして、どのように受容するのがよいのでしょうか? 僕たちの耳は、貝がらから潮騒を聴きとれるでしょうか?

(追記)自由からの逃走は、リースマンでなくてE.フロムでした。読み返すたびに恥ずかしさを思い出して自分への戒めとするため本文中にそのまま残しておくことにいたします。

(追記)「貝殻に耳を澄ませる」という表現をとりいれた詩や小説は数多くあるかと思いますが一例として西脇順三郎訳のコクトーの詩から。「オレの耳は一つの貝殻である/海の残響を愛す」
プロフィール

読む人

Author:読む人
小説の感想を、自分基準で。コメントはご自由にどうぞ。

★☆☆☆☆(面白くない)
~★★★★★(面白い)で評価。

最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。