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多和田葉子「飛魂」

出典:多和田葉子『飛魂』(講談社・講談社文芸文庫・2012年)
評価:★★★★★

飛魂 (講談社文芸文庫)飛魂 (講談社文芸文庫)
(2012/11/10)
多和田 葉子

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この前出版された講談社文芸文庫の『飛魂』から、表題作「飛魂」の感想を。ことばの世界で遊ぶとはこういうことなんだ、という気づきを促してくれる素晴らしい作品でした。この作品の工夫としていくつか指摘できます。一つは、作品の舞台を、現代日本じゃないどこか(中国の奥地を強く匂わせますが、作中では一言も中国とか、支那とか、チャイナとかいった国名・地名はでてきません)に定めていること。これによって、日常あたりまえにおこらないような出来事がおこっても、「この世界ならあり」と納得のいくものになっています。

ヘタな書き手だと、自分の好き勝手に作品世界を捏造するだけにとどまり(といっても小説を書くことじたいが捏造ですからそれはそれでいいのですが)、作者のナルシシズムがだだ漏れだったり、場当たり的な設定や固有名詞を連発して読者をいたずらにふりまわすだけだったり、いずれにしろ読むに耐えない作品になってしまうのがオチ。

一方、多和田葉子の「飛魂」では、できあいの言葉づかいを回避し、この世界特有の語彙(たとえば「幽密」)、動植物(たとえば「ハヤカ虫」)、現象(たとえば「枝叫び」)によって、作品独自の世界を丁寧に造形しています。語彙だけでなく、レトリックのうえでも

ある日、目を覚ますと、君の枕元には虎が一頭、立っているだろう。天の色は瑠璃、地の色は琥珀、この両者が争えば、言葉は気流に呑まれて百滑千擦し、獣も鳥も人も、寒熱喜憂の区別をつけることができなくなる。(p.8)

と、対句表現を用いており、この作品冒頭の文章で一気に作品世界に引き込まれてしまいます。ここだけ見ても、対句表現、「天」や「地」ということば、「百滑千擦」「寒熱喜憂」という四文字熟語から、日本語でこれを読んでいる僕たちは、ひとこともそう名指されていないにもかかわらず、中国を強く連想してしまいます。しかも、一度も読んだことのない熟語(「百滑千擦」「寒熱喜憂」)であっても日本語読者は難なく読めてしまいますし、その意味するところもすんなり了解できてしまいます。この驚きたるや、冒頭から僕はのけぞってしまいました。自分勝手な世界を書いちゃう初心者なら、書き手だけが分かっていて、読み手には全然伝わらない言葉をつかうか、読み手につたえるために、「これはこうですよ」なんてくどくど説明して物語が停滞しちゃうかのいずれかでしょう。それを単に単語をズバッとだしてきてしかも読者にきちんと伝わる(気にさせる)というのは、やはり表意文字である漢字が、意味を伝えるうえでは経済的なのかもしれません。その特性を利用しつくすこの工夫!説明しようとする僕のことばをさっさと置き去りにして、遙かとおくに行ってしまった多和田葉子。

見たことないことば使いということでいえば、沢山の比喩表現も、「飛魂」のなかに登場します。これもやっぱり、この世界をじっくり構築しているからこそ成立する比喩であって、同じ比喩を別の作品にその比喩の部分だけ取り入れても、表現は色あせてしまうと思います。

それは日差しが庭に置かれた古い鯉灯に反射して、まるで石の中から金色の鱗が生えてくるように見える朝だった(p.11)

上の一文に負荷されている情報量たるや相当なものですが、読む方としては驚くほどすんなり理解できてしまいます。一つ一つにこだわれば、「鯉灯」なんて誰も知らない造語でしょうし、「石の中から金色の鱗が生えてくる」なんてだれも見たことない事態です。いちいち引っかかれば「なんだこれ!意味分からない!」となってしまいそうなものの、一度も見たことないものや現象によって表現されるその様が、「朝」を形容する比喩としてズバっと成り立ってしまう。場当たり的でないのは、鯉と鱗で近接する語彙を、陽射し、反射、金色、さらにいえば鯉や鱗から連想される水の煌めきといった光のありようが、短い一文の中におかれ、お互いに響きあっているからかもしれません。大袈裟ではなしに、奇跡的なことばづかいにまたうちのめされました。ヘタな比喩表現と比べてみると分かりやすいかもしれません。

鳥のさえずりを耳にした瞬間から、僕の胸の奥に抑えようのない特別な気持ちが巣くってしまったからで、それは最初ハツカネズミに心臓の真ん中を咬みつかれ続けているような感覚だったんですけど、やがて凍み豆腐が冷水を吸ってふくらんでシトシトと低温の滴を垂らすみたいに感じられたその頃には僕は悲しみで胸が張り裂けるという言葉の意味がよくよくわかるようになり(いとうせいこう「想像ラジオ」『文藝』p.80)

多和田葉子の上であげた比喩表現とくらべて、言葉数が多いにもかかわらず、密度がぐっと薄まり、使われていることばの連関はバラバラです。

話をもどして「飛魂」についてもう少し。ここまでを踏まえると、現代のいま・ここから遠く離れた世界でふしぎなことがおこるおとぎ話的な世界と割りきってしまいそうになります。いわばマジックリアリズム作品を読むときのような感覚。けれども、こんな不思議なことば使いで作品世界が作られながら(リングイスティック・リアリズムという形容さえささげたくなります)、今ここで日本語でこの作品を読んでいる読者と地続きであることをつよく実感させもします。

それは、「虎の道」を極めようとする梨水という女の子と亀鏡という女師匠との師弟関係を軸にしているから。師弟関係に、たとえ同性であろうとその根底にはエロティックなものが存在せざるをえないという洞察がそこここで光っており、実際、誰かを心から尊敬するとか本気で憧れるとかしたことのある人なら、身に覚えのあるような人間関係が、今・こことはずいぶん隔たっているはずのこの作品世界で展開されていることをずいぶんと身にひきつけて考えてしまうのではないかと思います。

上で、この作品を、リングイスティック・リアリズムとでも呼びたいといいましたが、たとえばことばそのものに注目する文学作品であれば、「不思議の国のアリス」にしろ、ベケットの一連の作品にしろ、ハイモダニズムのような作品にしろ、決して珍しくありません。しかし僕の読んできた限りでいえば、それらはどれも実験のための実験という色合いが濃く、読む途中に投げだしたくなる、通読するにも我慢が必要、また、読んでもすぐ忘れてしまう、再び読みたくない、そんな作品ばかりです。それにたいして「飛魂」は、ことばの世界で遊びながら、それが実験のための実験のようなつまらないやせ我慢主義に陥ることなく、「こんな作品読んだことない!」という驚きとともに読者をその独特なことばづかいで一行一行、一語一語でうちのめし、しかも二度読み三度読みしたくなる、ちゃんと小説として成立している稀有な作品です。自分の頭の中の日本語の使い方が、いかに「普通の」使い方でがんじがらめになっているかを気づかせ、どろどろに溶かしてくれる、エロい作品でした。

多和田葉子がノーベル賞をとるまえに、絶版になっているもの、単行本未収録のものを集めて、今のうちに出しておいてほしいものだと思います。がんばれ、講談社。

いとうせいこう「想像ラジオ」

出典:『文藝』2013年春号
評価:★★★★★

3・11以降、震災とそれにともなう原発事故に何らかの形でふれた小説が量産されてきました。新人賞応募作でも震災をあつかった作品がふえたのではないかと受賞作や落選作についての選評をみるかぎり推測できます。小説にかぎったことではないのでしょうが、何らかの形で──現地に足を運ぶものから、「私は震災に関心が湧かない」という表明までもふくめて──「震災」についてふれないといけない、とだれかが義務を課したわけでないにもかかわらず、なんとなくそんな空気になってるのを感じられます。そういう流れのなかで、いとうせいこうの小説「想像ラジオ」。

まず「耳を傾ける」こと、これが強いメッセージとして打ち出された作品です。

だけどだよ、心の奥でならどうか。てか行動と同時にひそかに心の底の方で、亡くなった人の悔しさや恐ろしさや心残りやらに耳を傾けようとしないならば、ウチらの行動はうすっぺらいもんになってしまうんじゃないか(p.46)

上は復興のボランティアに携わる人の発言として作中にでてきます。

「死者と共にこの国を作り直して行くしかないのに、まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ。この国はどうなっちゃったんだ。」
「そうだね」
「木村宙太が言ってた東京大空襲の時も、ガメさんが話していた広島への原子爆弾投下の時も、長崎の時も、他の多くの災害の折も、僕らは死者と手を携えて前に進んできたんじゃないだろうか? しかし、いつからかこの国は死者を抱きしめていることが出来なくなった。それはなぜか?」
「なぜか?」
「声を聴かなくなったんだと思う」
「……」(pp.70‐1)

上は生者と死者とのあいだで交わされる対話です。「死んだ人は言葉を話せるわけないだろ!こんなの生き残った人が自分に都合のいいように捏造してる嘘っこのエゴだ!」という、僕もふくめて当然の反応をする人には作中で、これまた当然のようにそういう声にも応答があるので、じっさいに作品にあたってみてください。

なにをおいても想像力をはたらかせて声を聴き取る、聴こえてきた声に正直に耳を傾けて、声と共に歩んでゆく。この、想像力を働かせることでどこからか声が聞えてくるメディアとして、ラジオを選んだところも作者の慧眼です。メディアという言葉じたいに示されるように、ラジオを通じて死者と生者が媒介される。声なき声は、どこかから、必死で、ときに陽気に、ときに悶えながら、声をあげているに違いありません。

メッセージが前面に出てくる小説は押しつけがましさがどうしてもつきまとって、僕は好きになれないのですがこの小説は別でした。耳を傾けることを、理路を尽くして説得的にさそいかけてくる作品です。「想像ラジオ」を読み終わってすぐ、亡くなって10年ほどになる祖父の声が僕の耳に聞こえてきたとき、この作品は具体的な出来事である地震についての震災モノという枠を踏み越えて、より広い地平にでて普遍性を獲得したのだと僕には思えました。人類学的な洞察をもった鎮魂文学といえるでしょうか。そう考えれば、大惨事の現場に直行して即時につたえる報道の言葉に対して、文学の言葉は震災後数年たってやっと形になることで、「いまさら…」ではなく「いまこそ」の、文学の言葉独自の存在理由を獲得できるはずです。

あと、気になったところを二つだけ。

一つ目。これだけの達成をなしとげた作品ですので指摘するのは心苦しいですが、僕にとっても特別な曲なのでいうだけはいっておこう。「想像ラジオ」ではクラシック音楽からポップミュージックまでいろいろなナンバーがかかります、まさにラジオ。その中で、

『三月の水』って曲で、原題はwater of marchって言うて、『三月の雨』とか訳されてたりするんやけど(p.47)

ただしくは、Waters of March でwaterは複数形です。がんばれ校閲係。

二つ目。この作品の掲載媒体が文芸誌ということだからか、久々の小説だということだからか、ともするとブンガク的修辞がウザったく感じられることもありました。

なぜかというと、鳥のさえずりを耳にした瞬間から、僕の胸の奥に抑えようのない特別な気持ちが巣くってしまったからで、それは最初ハツカネズミに心臓の真ん中を咬みつかれ続けているような感覚だったんですけど、やがて凍み豆腐が冷水を吸ってふくらんでシトシトと低温の滴を垂らすみたいに感じられたその頃には僕は悲しみで胸が張り裂けるという言葉の意味がよくよくわかるようになり(p.80)

メッセージ性をもった力強い小説なので、余計な小細工はせずに直球勝負でよかったかなとも思います。無駄に凝った表現をすると、イメージを豊かに使えるどころか逆に流れが停滞したり、イメージが濁ったりしてしまい作品の力を損ねます。が、こういうところも瑕にならず、読んだ後に静かで、確かな手ごたえを残してくれる作品でした。本職の小説家の人たちはこれ以上の仕事をしないとですね。

丸岡大介「カメレオン狂のための戦争学習帳」

出典:『群像』2009年6月号
評価:★★★★★

一人でも多くの人に読んでほしい、この一言に尽きます。群像新人賞受賞作で、この時の選考委員はみなこの作品を押していますがなかでも松浦寿輝は「文運隆盛」としてこの作品の受賞を寿いでいます。寿輝だけに。いやそんなことがいいたいのではなくて、松浦寿輝選評のなかにこんな言葉があります。

ゴーゴリとカフカを潜り抜けた後藤明生がピンチョン的手法で「戦争」の学習を行っているかのようだ。(p.135)

とあり、たしかにそういわれるとそうだなあと思えるほど文学的滋養を十分に吸って花咲いた作品です。ある地方都市の教員寮を舞台にして、寮の動静を密かに探る教員田中は、学校と寮生活で多数の視線にさらされ神経をくるわせながら、その様を喜劇的にレポートしつつ、記述はただ言葉の表層を滑って、実体定かならぬ「敵」の姿をパラノイアックに妄想していく。ここにはゴーゴリ、カフカ、後藤明生、ピンチョンが息づいています。

それだけではなく、この作品に絶大な影響を与えていると思われる作家として、野坂昭如を忘れてはなりません。その影響はまずもってこの作品の流れるようなリズムをつくり出す怒涛の饒舌体に見て取れますし、作中でもサングラスをかけた田中が野坂昭如をリスペクトし(笑)、『マリリン・モンロー・ノー・リターン』を五連唱するという直接的な記述もあれば、レズビアンが爪を短く切りそろえているとまことしやかに語られるところや、いまだかつてないオナニーマシーンの開発秘話などは野坂のデビュー作『エロ事師たち』に該当箇所があったはず。さらにタイトル『カメレオン狂のための戦争学習帳』の「カメレオン狂のための」という部分は、野坂によるカポーティの訳書『カメレオンのための音楽』にむけたリスペクトともとれます。

こう書いていくと文学的な裏付けが読みとれる人じゃないと楽しめないような、ともするといたずらに「高踏な」「難解ぶった」作品ともとられかねません(だいたい一般の読者にとってゴーゴリ、カフカ、後藤明生、ピンチョン、野坂昭如らは馴染み薄いはず)。が、決してそんなことはありません。選考委員の絲山秋子をして設定勝ちといわしめた教員寮というのは、学校の先生たちの生態であるし、また学校の先生視点からの学園生活ものとしての側面も多分に持ち合わせているので多くの人にとってなじみある素材を扱っています。

文体の変奏も多彩で、野坂譲りの饒舌体、主婦による投書文体、演説調、ピンチョンを思わせることば遊び&妄想の連打、報告文風、などめくるめく転調が楽しめます。この辺も音楽的。そういえばタイトルの「~のための」というのも楽曲によくあるタイトルのつけ方ですね(e.g. 2台のピアノのためのソナタ、18人の音楽家のための音楽)。文体をさまざま使い分けるだけではなく、地口、比喩、パスティシュはじめあらゆるレトリカルな仕掛けもそこここにあります。使い方もレトリックのためのレトリックになっておらず、ちゃんと作品のテーマや場面と絡み合った必然性があるもの。

 まずは音、続いて光、いくつもの。十代少年集団の運転による違法改造オートバイの十台ほど、彼ら流の《誰にも縛られたくない》という例の主張どおり交通法規にも縛られることなくあきらかに制限スピードを越して国道を疾走しながら騒音と排気ガスをまきちらす。それが部屋の中にいても聞こえる。(p.6)

上は、冒頭の一段落です。ここを読んだだけでこの書き手のセンスがよく解る。のっけの「まずは音」はどことなく石川淳『至福千年』の出だし、「まず水」を想起させますし、そこから途切れず「続いて光、いくつもの。」と続けることで、五七五の音で作品世界へ導入しています。ヘタな書き手が韻文を意識するとダサいだけですがこの導入はすばらしいですね。音への注目は次の文の暴走族の爆音へと繋がりますが、そのなかでも「十代」「十台」と同音を並べています。さらにはこの一文が、規則(とそこからの逸脱)をめぐるこの作品全体を予告する象徴的な文ともなっている。そしてさりげなく視点を、というよりこの場合「聴点」とでもいえばいいのかもしれませんが、それを部屋の中にスムーズに移動させる。

冒頭だけ気合入っていてあとは失速するというのは新人賞受賞作(とか優秀作)にたまに見られるタイプですが、この作品は最後までこのテンションをたもって疾走します。どこも読み応えがありますが、特にラスト付近のシーン、コーヒーカップが宙を舞い静止する場面では、そこにたどり着くまでさまざまに仕掛けてきた伏線を鮮やかに回収し、さらにはこの作品が栄養としてきた従来のあまたの文学作品をあざ笑うがごとく、コーヒーカップの絵から物語が噴出します。これには度肝を抜かれました。現代文学史(というものがあれば)に登録したい圧倒的な描写でした。

そしてなによりこの作品が強い力を持っているのは、古今東西、マクロミクロレベル、あらゆる場面で人類と切り離せない「戦争」という大テーマを、これでもかというくらい執拗に描いている普遍性があるから。この通奏低音としての「戦争」があらゆる場所、あらゆる言葉の裏から噴出して倍音、いやこの作品でいうなら爆音を響かせています。歴史として習う戦争、隣とのいさかい、同室で寝起きする者との殴り合い、敵対する組織との暗闘、職場内の権力闘争、イデオロギー同士のぶつかり合い、などなど「戦争」というものと現代とは決して無縁ではありません。だからこそこの作品はいつまでたっても読まれうる傑作たりえています。

この作品の前々回では諏訪哲史『アサッテの人』が群像新人賞を受賞し、そのまま芥川賞を取りました。この作品の強度は『アサッテの人』に勝るとも劣りません。だのになんでノミネートされなかったのか非常に不思議でたまりません。ラストの辺りでは、「キチガイ」という記述がいくつかみられる(単行本化にあたって修正済です(笑))ので、もしかするとこの言葉が芥川賞のコードに引っかかってしまったのかなあと邪推しないでもないですが。

書き手の丸岡大介はこの作品を書いた後、紀行文と雑文、短編をそれぞれ一つづつ書いて以降沈黙しています。このデビュー作を超えるのは並大抵ではないでしょうがこの書き手ならいつかは書いてくれるに違いない、それほど力のある書き手です。僕はいつまででもこの人の作品を待っています。未読の方は、芥川賞受賞作なんかよりも、是非この『カメレオン狂のための戦争学習帳』を読んでみてください。

庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」

出典:庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(中央公論新社・中公文庫・1995年)
評価:★★★★★

永遠の18歳というとやはり薫君じゃないでしょうか。庄司薫、実年齢はもう75才です。脳内イメージは、黒の徳利のセーターを着て微笑んでいる著者紹介のまんまですが、どんなお姿になられたのか。

久々に読んでみましたが、やはり傑作です。薫君のイメージとともに古びない、どころか作品のほうはますます力を増している気さえします。日比谷高校の「いやったらしい」エリート文化を描いたところには、ひとことでは形容できない、まさにこの作品一作をかけてでしか語られなような複雑な感情が何重にもおりたたまれています。その複雑な感情を語るには、この軽妙な語り、ただし問題から逃避しているのではなく、また借り物の言葉をまとうのでもなく、あくまで自分の言葉で実感をこめて語ろうとする真摯さが要請されたのだと思います。いつまでたっても「青春文学」と呼ばれるのはひとえに、薫君の語りの真率さ、まさにその一点にかかっている。

そしてこの作品が現在でこそ読み直されるべきだ、と僕がおもうのはやはりいま僕たちをとりまいている文化状況があるから。東大の学生運動がピークをむかえ、かつ下からは大衆化された世代が押し寄せてくるという、薫君たちの板挟み状況は、まさに戦前の教養主義の最後の煌めき、とでもいっていいようなかけがえのない時代で、それ以降は、感受性の人一倍鋭い芸術派の大将・小林が感じていたような得体の知れない脅威にワーッと呑みこまれて行ってしまう時代が到来してしまうわけだけれど、現在何が残っているかというともう圧倒的な大衆のパワーのまえにあらゆるものがこきおろされてしまう、そういう寒々しい状況が広がっているという。

薫君なり小林なりの文化オムニボアが真の意味で輝けた最後の時代をこの作品で振り返るのは、しかし単なるノスタルジーではなくって、あくまで「それでも何とかしなくては」という勇気づけを与えられるから。一度っきり軽く読み流す程度だと、「いい時代もあったもんだ、それもこれからは無くなっていく、あーあ」というくらいの嘆きにしか受け取られかねないけれども、やはりタイトルにもあるように「赤ずきんちゃん」を求める少女に、生爪の剥がれた左足親指の激痛をこらえながら笑顔を振り絞るその精いっぱいさ、そここそが本当の読みどころのはずです。様々な悪意、嘘っぽさ、偽善、詐欺、軽薄さ、あらゆるものが渦巻く世の中で、それでも歯を食いしばって立ち向かう薫君の姿は、もう今では手遅れじゃないのかという疑問も一方では抱きつつそれでも、僕に一すじの光を見せてくれる大きな指針となっています。

青春文学とはいわれつつ、この作品は今の十代には十全に通じないだろうなあ。ある程度年齢がいった人、あるいは現在のお寒い状況に歯噛みしている人こそ、読んで心を動かされる作品だとおもいます。

以下、気になったところメモ。

つまり田舎から東京に出てきて、いろんなことにことごとくびっくりして深刻に悩んで、おれたちに対する被害妄想でノイローゼになって、そしてあれこれ暴れては挫折し暴れては失敗し、そして東京というか現代文明の病弊のなかで傷ついた純粋な魂の孤独なうめき声なんかあげるんだ。もちろん中島でなくったっていい。つまりなんらかのおおいなる弱味とか欠点とか劣等感を持っていてだな、それを頑張って克服するんじゃなくて逆に虫めがねでオーバーに拡大してみせればいい。しかもなるえくドギツく汚なく大袈裟にだ。小説だけじゃないよ。絵だってなんだってみんなそうなんだ。とにかく売りこむためには、そして時代のお気に入りになるためには、ドギツく汚なくてもなんでもいいから、つまり刺激の絶対値さえ大きければなんでもいいんだ。そしてそうなりゃもう誰だって、ほんとうに美しいもの、花とかさ、そういったなにか美しいものを見せるよりはズバリセックスとか汚ないものとかをそのままどうだとつきつける方が早いに決まってる。そしておれはね、そういういわば絶対値競争にはもう全く自信がないんだよ。それからおれは、そんなあさましい弱点や欠点暴露競争にも参加する気にはどうしてもなれないんだ。つまり資格がない、全然もともと資格がないんだ。(中略―引用者)これじゃあ狂気の時代になるのは当たり前だ。つまり昭和元禄阿波踊りだ。そして踊らにゃ損々なんだ。おれはもう何もやる気がしないんだ。おれはね、おれはさ、日比谷に入って初めて卒業生名簿を見た時、白状するとすごく嬉しかったんだよ。まあ、どうでもいいことだけど、夏目漱石だとか谷崎潤一郎とか小林秀雄とかズラズラいてさ。それで、おれは漱石が大好きだからさ、これも何かの縁だ、おれはきっとあとを継いでやろうなんて思ったりしてね。でも、もうだめだ。評論家になってそんな時代を叩っきる気さえしないんだ。同じ小林でも秀雄大先輩とは時代がちがうんだ。阿波踊りのどまん中でモーツァルトを、いやワグナーをきかせたって、それがいいものだって言ってみたって、そんなのはそれこそナンセンスに決まってるんだ。(pp.120-2)

上の引用は、薫君に涙しながら愚痴る芸術派の総帥、小林の内面告白。庄司薫じしんが、実は自分が日比谷で過ごしたときは、薫君というより小林のような存在だったといっていることからすると、この小林のことばは、書き手の庄司薫のことばとして受けとりたくなる誘惑に駆られる。そして上の引用で非難されているのは、関西からの越境入学者中島の、劣等感に開き直っている点(そしてそれは中島個人の問題ではなくもっと多くの人に共通する問題のはずだ)だが、そういうドギツイ「下劣さ」を武器に文学界に殴りこんでいったのが村上龍だとすれば、その開き直りのパワーを目の当たりに感じた小林=庄司薫はもう四面楚歌になる以外なかく筆が止まってしまうのかもしれない、というところまで妄想を広げたくなる。村上龍の書き散らす小説の、どうしようもないスノビッシュな芋臭さ、読者をバカにしたようなサービス精神が、嫌悪感半ばしつつもウケてしまう世の中なのだから。

彼らの果敢な決断と行動、彼らと行動を共にしないすべての若者をすべての人間を非難し虫ケラのように侮辱するその行動の底には、あくまでも若さとか青春の情熱といったものが免罪符のように隠されているのだ。いざとなればいつでもやり直し大目に見逃してもらい許してもらえるという免罪符が。若き日とか青春といったものを自分の人生から切り離し、あとで挫折し転向したときにはとかげの尻尾みたいに見殺しにできるという意識が。もともと過去も未来も分けられぬたった一つの自分を切売りし、いつでも自分を「部分」として見殺しにできる恐るべき自己蔑視・自己嫌悪が隠されているのだ。でもぼくにはそんなことはできない。ぼくだってもちろんこの現代社会が明らかにウサンくさくそして大きく間違っていることを知っている。だからぼくだってそれがどうしても必要だと分ればいつだってゲバ棒をとるだろう。それが自分だけのためではなくみんなを幸福にするためにどうしても必要であり他に方法はないということが、誰でもなくこのぼく自身の考えで何よりもこの胸で分った時には。でもその時にはぼくは、ただ棒をふりまわして機動隊とチャンバラをしたり、弱い大学の先生を追いかけたり、そしてそのことだけでも問題提起になるなどと言い訳めいたことは言ったりせず、しかし確実に政府でも国家権力でもひっくり返すだろう。やれるだけやればいいなどと言っていないで、ちょうど由美を襲う暴漢の息の根を確実にとめるように、必ず絶対に、あらゆる権謀術数、あらゆる寝わざ裏わざを動員して、時には素早く時にはずる賢くそして時には残忍極まる方法を使ってでも、確実にぼくのそしてみんなの敵を、それが政府だろうと国家権力だろうと絶対確実に倒し息の根を止めるだろう……。でもこれは明らかにぼくの捨て台詞だった。(pp.138-9)

木下古栗「いい女vs.いい女」

出典:『群像』2010年12月号
評価:★★★★★

初めて出た星五つ。デビュー作の「無限のしもべ」を読んだ時に虜になった作家なのでこの評価には多分に思い入れが入っていますが、もともと独断と偏見で星をつけている(独断と偏見を離れた小説の読み方があるでしょうか)のでご容赦を。これこそ現代の小説とよんでいいんではないでしょうか。もともと短編=短距離走向きの選手で、ネタをポンポン出していって支離滅裂になるというのが芸風の書き手ではあるのだけれど、この作品にかぎっていうなら、その手をかえ品をかえして息切れしそうになったらポンと話題を転換する、けれど転換したあとも「ワイルドとは何か」という問いを探求する(ふりをする)身振りを捨てなかったことが作品全体を貫く軸となってこれだけの分量をもつ作品として成立した勝因だろうなあ。言葉をかえれば、「ワイルド」でボケマショー(@ごっつええ感じ)を延々やってる感じ。ついでにいうと、芸人のすぎちゃんが話題になる前に発表されたこの作品ですでに「ワイルド」に目をつけてるところが妙ににやけてしまう(笑)

いちいち出てくるネタがいつも通り馬鹿馬鹿しい下ネタなのだけれど、やはりそれを読ませるレトリックや仕掛けが随所にちりばめられているのも見逃せないです。くだらないネタをさも真面目ぶって読ませてしまう文体の力と発想とが現代の日本人の書き手の中でも抜けていますね。

あらためて「いい女vs.いい女」を一つの木下古栗の到達点とする文体やアイディアの特徴をまとめてみたいと思うけれどもここではまあこの作品に限って気づいた点をいくつかラフスケッチしておくにとどめます。

これぬきに語れない特質として、随所に「矛盾、対立」を仕掛けるということ。わざとかどうかは判別しかねますが、ちょうど桂枝雀がいってたような、緊張と緩和の、緊張の部分。一文の中にも、テーマの中にも、全体を通して「矛盾、対立」を仕掛けておいて、うまく解消して、あるいはぶつけて、笑いに変換するというのが常套手段ですね。例えば意識と身体の対立。とくに、頭では分かっていても体が勝手に動いてしまうとか、目が勝手に引きつけられてしまうとか、「自然と」「おのずと」という言葉とかをよく使ってる気がします。

ハッと我に返り顔を背けて、小走りにその場を離れた。が、覗き見などしてはならぬという気持ちがまじまじとヌードを観察したい気持ちに負け、すぐ取って返してまた覗いた。(p.59)

一度は裸男のいる現場を離れようとするも、やっぱり覗きをしたいと思って足がそっちを向いてしまう。頭と足とが矛盾しますよね。他の作品でも木下古栗はこういうギャップを仕掛けていますが、本作でこの頭と身体の(古典的で紋切型の)対立が生きているのは、やはりテーマに選んだ「ワイルド」に尽きると思います。頭と身体は、言葉と行為と言いかえてもいい。

現代の、何もかもががんじがらめになって息苦しい時代、頭でなんでもコントロールしてしまう時代、その頭を裏切り、出し抜き、反抗し、組み伏せてしまうかのような身体の動きは、まさに「予想を裏切る」ワイルドに通じるものでしょう。ワイルドを通して人間の原初へ、根源へと回帰する。脳内に住みつく裸男が原始人を連想させ、バーの向かいのカウンターに座る女を見つめるあまり野獣に変身し、野外露出を楽しむ場所が俗世間から離れたどこともいえない楽園を彷彿とさせるのはだてじゃありません。どれも息苦しい現代生活のなかでワイルドへの衝動が一瞬噴出する場面です。今までの作品ではただ笑いのネタだった頭と身体の矛盾という仕掛けが、この作品ではワイルドというテーマのおかげで一つ深くなっていまね。

また、緊張の緩和のさせ方が伝統的な文学的手法、レトリックにうまくのっとっているので、「うまい!」と思わず膝を叩いてしまうのでしょうね。そんなに小説を読まない読み手だと、単に下ネタの部分だけに反応して笑うに過ぎないと思いますが(もちろんそれでも十分楽しめる)、ある程度小説を読んできた人(あるいはすでに物書きである人たち)の間でこそこの作家の評価が高いのは、ひとえに伝統的な手法を十分すぎるほどに使いこなしながら、馬鹿馬鹿しいネタを表現できる爆発力を備えているからです。本作の終結部分に近いクライマックス、「郵政民営化は野生化だ」との主張は、そこにたどり着くまでにさんざん「ワイルド」でボケマショーを手をかえ品をかえ繰り返してきて前ふりによって読者に準備体操させておいた挙げ句の、壮大な諷喩によるクライマックスです。諷喩ってなんだっけという人はレトリック辞典で調べてください。この、郵政野生化のシーンは文学の伝統と現代とがガチンコでぶつかった、近年の小説のなかでも屈指の名場面です。教科書に乗せたい。

長くなりそうなのでこの辺でやめておこう(笑)。もう少し詳しく、稿を分けて木下古栗の文体、語法について描いてみようと思います。時間ができたらですが。これと同程度の分量をもった作品をもう一つぐらい書いて、芥川賞は審査員の関係もあって無理かもしれないけれど三島賞はぜひとっていただきたいですね。この作家に書き続ける場を!
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