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吉田篤弘「梯子の上から世界は何度だって生まれ変わる」

出典:『群像』2014年2月号
評価:★★★☆☆

 まずいコーヒーの話なら、いくらでも話していられる。おれのこれまでのところの人生は、あらかたまずいコーヒーと共にあった。おれは基本的に不運なんだと思う。じつにおかしな奴らばかりと出逢ってきた。(p.102)

のっけからハードボイルド!

おれは常に街なかに居ないと落ち着かない。街にはノイズがある。雑音がなければ街じゃない。おれは要するに雑音を愛している。
 もともと、おれは雑音ならぬ雑文を書いていた。ノイズのような文章だ。世間ではコラムと呼ばれていたが、おれは一般的なコラムの様式から外れて、自由に書いた。自動販売機のまずいコーヒーを片手に、月に二十本は書いた。(p.103)

イッツ・ハードボイルド!冒頭の1、2ページを読んだ時点で、カーヴァー(村上春樹経由の)とかチャンドラー(村上春樹経由の)を連想しました。「雑音がなければ街じゃない」からはそのままデューク・エリントンの「スイングしなけりゃ意味がない(It Don't Mean a Thing If It Ain't Got That Swing)」の響きをききとれますし、これも翻って村上春樹の「意味がなければスイングしない」に繋がっていきますね。そういえばまずいコーヒーというのも伝統的なジャズ喫茶名物でした。

このコラムで生計を立てていた男は、自分に投資して「電球交換士」となります。

ただひとりきりの〈電球交換事務局〉を立ち上げ、ただひとりの事務員、だたひとりの作業員として、世界中の──ただし街なかの──この切れて使えなくなった電球を交換してまわる。(p.104)

この、電球が切れれば切れたままにしておけないので誰かが、とりたてて人に知られることがなくとも交換してまわる必要があるという、あたりまえといえばあたりまえといえる作業も、『ダンス・ダンス・ダンス』の「雪かき」の変奏ですね。

こうして村上春樹の痕跡ばかりを読み取っていてもしょうがないんですが、全体としては、大人の童話(エロい意味ではなく)的な印象を持ちました。夜、美術館で電球交換をしていたときに、一人の女と出会います。ここから展開するファンタジーのような流れ、彼女の口から「絵」が出され、その中に閉じ込められたというのは「みんなのうた」のメトロポリタン・ミュージアムですかね。超なつかしー!

 あらわれたのは彼女のかたくとざした口と、その唇のはしからこぼれ出た何やら尻尾のようなもの。その尻尾は何色ともいえず、あらゆる色が水たまりに落ちたガソリンのように流動していた。わずかに発光しているようにも見える。(中略──引用者)
 が、引きずり出されているものの正体が分からなかった。最初はそれこそ手品でも披露しているのかと思ったが、しだいに姿をあらわし始めたそれは、空気に触れるそばから膨らみ出した。みるみる膨張が著しくなって、やがて、とんでもないものが引きずりだされていることに気づいた。
 絵だった。
 より正確に云えば「風景」で、あとになって彼女が使った言葉に倣えば「見知らぬ風景」だった。(pp.107-8)

本作の全体のなかでなにか大事件が起こるわけではないですが、描写のひとつひとつにはどこかざわざわしたノイズ、ここちよい雑音がふくまれていて、それらがゆるやかにつながって一杯のコーヒーを飲んでほっとするような読後感をのこしてくれます。腹いっぱい食べたー!というんではないけれども、ああ美味しかった、という感じの素敵な短編でした。本作は、下北沢のセレクト系書店を徘徊するサブカル女子(マッシュルームボブ、赤のセルフレーム伊達眼鏡)が涎を垂らしてむさぼり読む一作です!

てことで最後のリンクはメトロポリタン・ミュージアムのジャズアレンジ曲を。スイング、スイングです!

【メトロポリタン美術館】(注意:音が出ます!)

作詞作曲は大貫妙子なんですねえ。当時はそんなこと関係なしにテレビで聞いてたなあ。

ウィリアム・ギャディス/木原善彦訳「シチルク対タタマウント村他裁判 ヴァージニア州南地区合衆国地方裁判所一〇五‐八七号」

出典:『すばる』2014年2月号
評価:★★★☆☆

一般人にとって読みづらい二大文章は法律関係の文書と、(二流以下の)学者による学術論文です[要出典]。その文書の性質上、分かりやすさを犠牲にしてでも、論理関係の正確さや明晰さが優先されるからで(もちろんいずれも満たされればいうことないのですが)、こと判決文の場合なら、ことばが多義的にならないよう配慮するとか、条件文を使って誤解なきように記述するなど、独自の技術によって書かれています。読む側もその道の専門家独自の読み方を身につけているので問題なく読めるようになっている。レントゲン写真を前にして素人だとどれが単なる影でどれが腫瘍か判別できなくてもトレーニングを受けた医者なら一発で怪しい部分を見分けられる、というのに近いかもしれません。

小説のことばにとってそういったことばは通例、悪文として退けられるわけですが、本作「シチルク対タタマウント村他裁判 ヴァージニア州南地区合衆国地方裁判所一〇五‐八七号」はその、小説のことばの慣習を逆手に取った、法律文書(判決文)のパロディによって成った作品です。タイトルからして、分かりやすさよりも、どの訴訟を扱ったものかを明確にすることが優先されてますよね。この小説のタイトルをとってつけたような小説的にするのなら「サイクロン7」とか「サイクロン7訴訟」とかになるのかもしれませんが、そうしてしまえば面白さ9割引きです。よってタイトルは本文となる判決文もどきとセットでなくてはならない。

判決
クリース判事

 事実関係について争いはない。九月三十日朝、村内を駆け回っていたスポットなる犬がノーフォーク&ピー・ディー鉄道停車場に隣接する広場の中央に位置するサイクロン7(セブン)なる鋼鉄製巨大彫刻の下に入り込み、出られなくなった。(p.164、括弧内は原文ルビ)

犬を助けるために彫刻の一部を地元自治体の決定で取り壊そうとしたところ、メディアで騒ぎを知った彫刻作者の芸術家が差し止めを求めて訴えに出、その可否をめぐって原告被告の間でやり取りがあったその一連のいきさつを、判決文が語るというのがこの小説の全体像。

いかにもありそうな諍いを、小説のことばをいったん棚上げして法律のことばというフィルターを通すことによって現実がいかにも滑稽に見えてきます。主張を正当化するためにもってくる根拠もばかばかしければ、事件をかたる真面目くさったことばづかいもばかばかしい。たとえば彫刻にはまり込んで抜け出せなくなったスポットという犬について

また本件に関連して、サイクロン7は、地元共同体の多くの年少者らにとってはもともと装飾的「ジャングル・ジム」であったものの、サイクロン7を見たスポットがクライミング能力を試されていると感じたとは、スポット自身の証言がない限り、考えられない。(p.168)

と生真面目に書かれ、スポットがわざと彫刻に入り込んだことは当事者の証言がないので否定される(笑)

また、こういうメタフィクションらしさが前面にでた作風であるだけに、自己言及的な個所も笑えます。サイクロン7の芸術的価値について様々な批評家らのことばがその根拠になるかどうかについて

批評家らは、傾斜度、接平面度、加速度、強度、エネルギーなどの抽象的言辞を弄して原告の彫刻作品を推薦しているが、これらの抽象的言辞はそれに対応する言語と言語との自己言及的対立のみに寄与するものであり、結果として言語そのものを理論に還元することにより、言語を単なる玩具にしてしまうがゆえに、本法廷はこの証拠を取るに足りないものとみなす。(pp.169-70)

と、芸術批評のことばには死亡宣告が下されます。まあこのことばを判決文体で語っているこの作品じたいが小説として発表されているわけで、分かってやってる自爆になっちゃいましたが。

地元住民の証言もあります。

「ここは静かな町だったんだ。例の外国人がここにやって来て、あの(冒涜語)な(卑語)をおっ建てるまでは。あれ以来、(冒涜語)な屑連中が集まってくるし、よその州の車まで見かけるようになっちまった。」(p.170)

実にばかばかしい(笑)。

いかなる文体を採用すれば小説の領土は広がるか。これは永遠のテーマです。神話や民話を先祖にもち書簡や自伝、宮廷ゴシップのかたちで近代小説が生まれ、以降、文体・語りともにじつにさまざまな形式が試みられてきました。純文学畑でいえば丸谷才一の仕事を、それに限らなければSFの諸作品が思い当ります。法律文書をこうして生き生きと語る成功例がすでにあるのであれば、なにかまだ書かれずに残っている領域のことばもありそうな気がしますね。僕ごときではぱっと思いつけませんけど。

平野啓一郎「透明な迷路」

出典:『新潮』2014年2月号
評価:★★★☆☆

新潮社の推す書き手のなかで、僕が面白いとちっとも思わない三大書き手は、古川日出男、佐藤友哉、平野啓一郎。純文学雑誌に作品の掲載される書き手でいえばこの三人は他よりもきっと売上は悪くないはずなのでそれぞれにフィットする層がいるのだろうと推測します。前二者は読んでくそ面白くないと絶叫すること再三再四だったので僕にとっては今や題名だけのライターと化しています。けれど平野敬一郎だけは作品の背後にインスピレーションを受けた小説、映画、芸術作品や、素材となった資料の痕跡が感じられるので、作品に取り組むその真摯な姿勢から「今までは面白くなかったけど、今回はもしかすると面白いかもしれない」という期待を捨てきれず、なんだかんだで読んではいます。読んではいるのだけど読後はきまって「うーんいまいち」とか「うーん普通」という感想に着地します。このソリの合わなさをもやもやしつつ考えてみても一向に納得のいく説明はつきません(笑)。

今回読んだ「透明な迷宮」も、とりたてて悪いとは思わないものの、目次の煽り文句「著者最高傑作短篇」というほどのものかなあと疑問は残ります。ちなみに雑誌新潮のツイッターでは「著者最高傑短篇」という脱字で告知されています。ケツ短編!

作品の構成は短編として面白く読めました。双子ネタも手垢にまみれているとはいえ素直な驚きがありました。けれど不満を覚えたところも少なからずあります。まず作品冒頭

 その天井の高い、黒一色の部屋で、彼らは全員、全裸で蹲っていた。男女六人ずつ計十二人がいて、日本人は岡田とミサだった。(p.8)

と特異な状況が読者の目に飛び込んできて一気に作品に引き込まれます。

部屋の壁は、薄いレザーのような光沢の黒に覆われている。やはりネオ・バロック調の白い大きな鏡があり(中略──引用者)一枚だけ、部屋の中央に濃紺の絨毯が敷かれているが、誰も近づこうとはしなかった。(p.8)

と部屋の内装の説明が続きます。ここで僕は「?」となりました。第一文目で「黒一色」といっておきながら、調度の色は「白」だったり「濃紺」だったりして、黒以外も使われています。ここまで読んできても同じ状況を説明しているはずなのですが、記述が矛盾していてよくわかりません。意図的だとすれば、同じ部屋に見せかけられた、その実よく似た別々の部屋(もしくは同一の部屋でも時間を隔てた部屋)かもしれない、と思って警戒してそのあとを読んでいきました。結局同じ部屋なんですよね、これ。書き手が迂闊なだけです。作品の初めくらいは気を使ってほしいものです。

また作中で使われる単語は「そこまで細かい情報必要か?」と思わせる記述で読み進めるときのノイズになっています。この作品は三人称岡田視点であるので、語り手が全面に突出してしまうととたんに語り手とほぼ重なるかたちで平野啓一郎が読者の脳裏をよぎります。いちいち引っかかる。たとえば、

取引先で教えてもらった、レヒネル・エデンによる独特のアール・ヌーヴォー様式が美しい郵便貯金局(p.9)

ハンガリー語は、インド・ヨーロッパ語族ではなく、ウラル語族のフィン・ウゴル語派に属しているらしいが(p.10)

EUのシェンゲン協定加盟国には、「最初の入域の日から6か月のうち最大3か月の間」しか滞在できないという決まりがあり(p.11)

という感じ。読み手の共通理解としてレヒネル・エデンやフィン・ウゴル語派やシェンゲン協定が当たり前だとはちょっと思えません。平野啓一郎が、これらの単語を読んだだけで「ああ、あれね」と了解できるようなレベルの読み手に向けてこの作品を書いているのならそれはそれで構わないと思います。これらの単語がどんなもの、人、事柄を意味しているのかイメージできない層は確実に作品世界から疎外されていくはずです。

一回ごとに、BGMが指定された。シュールホフやウルマンの弦楽四重奏曲、それに、メシアンの《世の終わりのための四重奏曲》を岡田は覚えていた。タキシードの男がショスタコーヴィッチの弦楽四重奏曲第十一番のスケルツォを指定した時だけは、なぜか見物人全員が吹き出して、しばらくハンガリー語で何かを議論していた。(p.14)

メシアンやショスタコはまだしも、読者の頭の中でシュールホフやウルマンは鳴ったでしょうか?いや、これもシュールホフやウルマンの弦楽四重奏と聞いて「ああ、あれね」と分かる読者に向けて書いているのなら問題ないです。

ちなみにウルマンの弦楽四重奏三番はこんな感じ。好きな曲です。
Eufonia String Quartet - Viktor Ullmann - Quartet No. 3】(注意:音が出ます!)

これらの引用部をはじめ、本作でつかわれていることばは全体的に小説のことばというより、単なる情報断片のコラージュあるいは説明になっている部分が多かったように思います。手元に辞書とインターネットにつながったパソコンがあれば楽しめる小説でした。平野啓一郎は小説というよりは、評論とか作品解説とか書評のほうが向いている気がするのは僕だけでしょうか。

(追記)突然降ってわいたように納得できたのは、この作品の読者として想定されているのは、2014年時点の今この作品を文芸誌上で読む日本語母語読者ではなくて、それよりも後々もし「透明な迷宮」が外国語に訳されることがあるとすれば、その時点でこの本をヨーロッパ諸語で読むことになる、ヨーロッパ在住のまだ見ぬヨーロッパ諸母語読者だということ。そう考えると僕にはトリビアに思えた部分のいちいちも断然「アリ」だと腑に落ちました。小説界のグローバル人材平野啓一郎!

西村賢太「貫多、激怒す──または「或る中年男の独り言」」

出典:『すばる』2014年1月号
評価:★★★☆☆

1月号ということで発売されるのは12月ながら冊子のゴージャスな金色の装いとともに新春作家顔出し掌編特集といったところでしょうか。目次をざっとながめてみて、もうこの「貫多激怒す」の文字が目に飛び込んできたとき即座に「これは卑怯(笑)!」と声上げてわらってしまいました。文字を読んだ瞬間、彼の、ふてぶてしい悪人面が抑えきれぬ怒りに奥歯喰いしめ紅潮して顫えているさまが脳裏を直撃しました。Youtubeで西村賢太がキレる寸前で怒りを抑えているテレビ番組の映像がアップされていたのをいつか見たことあったのでよけいに鮮明な映像として。とるものとりあえず読んでみました。

西村賢太のもとに、深夜の特番出演の依頼がきて、出演者があるお題にもとづきVTRを作るというお仕事の話が前半展開されます。お題は「土下座」と「東京」。掌編小説とあってあらすじ書きのようなもんですがここで紹介してしまうと全部書きかねず、そうなっては書き手に申し訳ないのできになるかたはぜひご一読を。

後半はそのVTR作成と小説の制作とを比較してみるという西村賢太の私小説論。

 これらはいずれも、筋を作っているときは楽しかった。平生は、自らの身辺に材をとったものしか手がけぬ故に、まったくの空想話を考えるのは妙に新鮮でもあった。(中略──引用者)
 が、さてしかし──そのどれもが、小説としては成立し得ないのである。少なくとも私は、この類をバラエティー番組の用途に供することはできても、自分の小説として仕上げようと云う気には、到底なれない。
 やはり、虚しいのである。観念だけでものを述べたり、登場人物をかように都合よく動かす話は、どうで次第につまらない気持ちになってしまうのだ。(p.135)

と、結ばれます。僕は観念だけでつくられたように見える話も大好きな口なのでここの小説観には全面賛成はしないんですが、しかし西村賢太はこういうことを言える資格が十分あるし、彼の作品も彼自身を実験材料にして得た経験がそのままの日常体験駄々漏れではなく、読まれることを意識した小説作品として昇華されていますもんね、。さりげなくこれはすごいことだと思います、彼の小説はいつ読んでも同じようなことが書いてあるにもかかわらず、いつ読んでも新鮮だし、いつ読んでも一定以上の面白さが保証されている!

タイトルにあるような貫多の激怒エピソードはこの掌編中になく、てわけでこのタイトルを内容を反映したものにするならば、「或る中年男の小説論」みたいななんの面白みのないものになるんでしょう。だけど彼の美学からすれば掌編小説の分際で「論」なんて大層なことばを使うことにアレルギーがありそうですし、そもそも「なんとか論」みたいなかしこまった体裁のテキストは全部クソくらえな考えっぽい気もするんで、むしろ内容と一致せずとも、そのタイトルだけで読者の目を引きつけ、出落ちであっても一度はきちっと笑わせることができたわけだから、このタイトル「が」いいはずです。タイトルの副題、「独り言」の部分には他人の同意なんてどうでもかまわない俺はこう考えるんだというふてぶてしいまでの自信を感じましたし、もちろん彼の仕事が「独り言」というつつましい枠にはとどまらない、私小説書きたちならきっと賛同するはずだろう魅力をそなえていることも分かります。それを「独り言」といってしまえるのが西村賢太の粋なところなんだなあ。これぞプロの物書きの仕事ですね。おみそれしました。

いとうせいこう「鼻に挟み撃ち」

出典:『すばる』2013年12月号
評価:★★★☆☆

僕が中学生のときの国語の時間に「俳句を作ってみよう」という課題が出され、即座に習いたての俳句をもじって「ふでばこや ああふでばこや ふでばこや」とやったクラスメートがいたのを思い出しました。あまりのナンセンスに印象に残ってはいたのですが、この句じたいを冷静に眺めてみれば季語がないなどの約束事無視は瑣末なことにしろ、習いたての型に、おそらく俳句をひねっているとき机の上に置いてあったふでばこがたまたま目にはいってすぐさまそれに飛びついて出来た安易な作だと知れます。

『想像ラジオ』で毀誉褒貶あれど(多くは「誉」「褒」でした)広く読まれたいとうせいこうが、今回書いた「鼻に挟み撃ち」は、『想像ラジオ』を読んで感じた、広さ、具体的にいえば特定の地域や時代に縛られないようなスケールのでかさ、みたいなものが、ずいぶん小さく切りつめられてしまった印象を読後持ちました。本作からいとうせいこうの、後藤明生なりゴーゴリなりにたいする敬意や驚きはひしひしと伝わってくるし、僕なりにそれらの作家は読んできたつもり(後藤明生はリアルタイムで知ったわけでないのでずいぶん古本屋をまわって探しました、ゴーゴリの『鼻』は最近の光文社版では落語調に訳されていて新たな面白さを発見することができました)でもあるので、それら書き手の現代文学に与えている影響もわかっているつもりなんです。が、本作はいってみれば冒頭述べた中学生のクラスメートと同様の着想、いとうせいこうにとって(多大なる敬意を抱いているぶん)身近に感じられる『挟み撃ち』や『鼻』にとびついて小説を書き上げた安直さが根っこにあって、どうしても本作には「狭さ」ないしは「近視眼」的な印象が終始ぬぐいされませんでした。『想像ラジオ』を前に読んでいたぶん余計に。

 ある早朝のことです、皆さん。
 わたしはじわじわと夢からあとじさり、波打ち際にずるずる引きずられるクラゲのように時に転がったりもしながら、素早い干潮の具合もあって気づけばついに戻りようのない現実に上陸していたのでした。
 あ、坊や、わたしはずいぶん文学的な言い方をしてしまいましたね。お母さんに手を引かれて信号待ちをしていらっしゃるけれども、おじさんはつまり起きた、と言ったのです。目をパチパチッと覚ました。えー、坊やはさっさと行ってしまいました。(p.14)

作品冒頭です。辻立ちして通行人に一方的に語っている人がいる。一方、次のは『挟み撃ち』冒頭です。

 ある日のことである。わたしはとつぜん一羽の鳥を思い出した。しかし、鳥とはいっても早起き鳥のことだ。ジ・アーリィ・バード・キャッチズ・ア・ウォーム。早起き鳥は虫をつかまえる。早起きは三文の得。わたしは、お茶の水の橋の上に立っていた。夕方だった。たぶん六時ちょっと前だろう。(p.7『挟み撃ち』(講談社・講談社文芸文庫・1998年))

後藤明生が1973年に、ぬけぬけと「ある日のことである」から作品を語りはじめたことに意味があるのであって、いまさら「ある朝のことです」とやられてもなんのおかしみもありません。普通です、普通。いとうせいこうの工夫があるとすれば、そのあと続けて「皆さん」と呼びかけているところ。後藤明生の『挟み撃ち』が一人の自意識が空転に空転をかさねて物語化しようとする自分の記憶をたえず打ち壊し続ける不毛な一人芝居だとすれば、いとうせいこうの「鼻に挟み撃ち」は、一人ではなくつねに「誰か」にむかって語りかける体裁をとる、舞台俳優やタレントとして見られる仕事を生業にするいとうせいこう的変奏といえるでしょう。だけれどそれが徹底していない。作品途中でずばずば視点が切り替わるし、終盤にさしかかればこれまたマスコミの好きしそうなネタが「鼻」というメタファーで語られる。

 ある政治家はAと言っているが、実はBを意図してはいないか、と危うさを嗅ぎつける。さらに疑えばCの匂いも奥にくすぶっているのではないか、と敏感に匂いを判断する。それが鼻というものの役割ですよ、皆さん。
 ところが誰も彼も鼻が利かなくなってきたのではないですか。だから政治家も官僚もマスメディアも評論家も飲み屋のオヤジもAから匂わせているわけにはいかない。はっきりCと言わなければ、いやそれどころか超C、激しくC、ウルトラCにしないと伝わらない。話題にならない。これではきな臭いどころではありません。はっきり火薬。もろに山火事。憶測とか忖度とか屈折を通じて慎重に議論を深めていく「嗅ぎあい社会」は、もはやここにはない!(p.39)


いろいろ書きたいことや試したい技術があってそれを詰め込んでみたらこの作品ができあがった感じです。読んでいて後藤明生やゴーゴリ、また「鼻」のすごさなんかも、いまさら言われてもなあというものばかりで、僕はこの作品の語り手にとってはあまりいい聞き手ではなかったのだろうとおもいます。後藤明生やゴーゴリを知らない人こそ、いとうせいこうのこの作品を読むことでこれらの作家のすごさを知って、直接先行テクストを手にとってみる、そういう一群の古典作品の世界にむけた一種の踏み台的作品として、よき案内役として本作があるのならそれはそれで大いに意味があろうと思います。無理に分かりづらい文章を書かない、どちらかといえば平易な表現で作品を書くところもそういう読者の嗜好にはあっているかもしれない。

けれど僕は、「ほらー、どうだ、おれのツレってこんな面白いんだぜ、こんなすげえんだぜ」というツレ自慢をされても、聞いているほうの僕もその「ツレ」たちのすごさを熟知しているんであってそういうのを聞きたかったのではなく、その「ツレ」たちから聞き取った声をじゅうぶん骨肉化したうえでの、もはやツレたちの声ともいとうせいこう本人の声とも判別のつかないところまで昇華されたスケールの大きな声を(僕が勝手に)期待していたのでした。その意味では期待したものは得られず残念。結局この作品は誰にむけて語られていたのでしょうか。文学部の一回生向けかしらん。
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