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中山智幸「リボルバー8」

出典:『文學界』2011年10月号
評価:★★☆☆☆

年末で本の整理なんかもしているので売るか押入れの奥にしまうかする前に読み残しているものにはざっと目を通しておこう二作品目。

語り手が通勤用自転車を盗まれ腹立ち紛れに街中に止めてある自転車を破壊していたところ、JK(自転車共壊)という自転車破壊行為を行う集団のメンバーに勧誘されます。

「きょうかいの”きょう”は共同の”きょう”、”かい”は破壊の”かい”です。ぼくたちは地球環境の回復と人間力への回帰を目的を自転車と共に壊す一派です。ぼくが発起人であり、リーダーです。こっちがゴモク、あなたをお連れしたこいつがスポンジ。外の世界で関係をリセットするため、主にニックネームで呼びあっています」(p.57)

このリーダーを名乗る男性は三十四才だとあとで分かります。この中二病台詞、しょうもない組織、三十四にもなって何やってるんだと白けたのが第一印象。会の説明はこんな感じ。

破壊された自転車を見せつけるのが肝心だと我々は考えます。破壊された自転車の像を、心身の内側に移植してやるんです。(p.58)

この男は三十四才です。

ぼくたちはそれなりの装備をもって破壊に臨む。見るも無惨な形にまで自転車を変容させる。徹底的に損なわれた、取り返しのつかないことなのだと持ち主に見せつけ、自転車という言葉から連想される姿をまったく別物に置き換える。もう二度と自転車など買わないと、深く決意させなくてはいけません。そうすることで、怠惰な意識を更地に立たせるんです。まっさらなところから、なによりもまず自分自身でやっていくのだと、決意を促すんです。(p.58)

この男は三十四才です。

まだわかりませんか? 信念ですよ。安易に自転車を使う人間の目を覚まさせるんです。(p.59)

繰り返します。三十四才、男。

自転車のタイヤと同じで、世の人間は二分されます、ペダルからの力をダイレクトに受けて推進力となる後輪と、その力を借りてさも自分で動いていると思い込む前輪とに。自ら前進してると思っていても、前輪は動かされてるだけです。本当の運動は、意識の背後で行われている。

もうくりかえしますまい(笑)。後輪だってペダルを踏む足で動かされてるじゃないかとか、そもそもこの言葉を語っている人間が自転車の後輪側の人間だと自認しているとしても、後輪側の人間が自転車を破壊する集団の構成員であるとはまるで意味が分かりません。語り手をアジトに招き入れ、ツラを見せ、どういう信念をもって、どんな手段で自転車を破壊するのかペラペラとしゃべったあとでなんと

 するとリーダーは態度を硬化させて告げた。
「あなたを迎え入れるわけにはいきません」(p.61)

これはひどい(笑)。このリーダー(34)は、わけのわからない自己流哲学をひとしきり披露して語り手を帰します。逮捕されるリスクがぐんと上がるわけですがその可能性にすら思いいたらない男(34)がリーダーの集団。馬鹿なの?こんなわけのわからない団体も、描き方によってはナンセンスな面白さがでたり不穏な不気味さがあったりするんでしょうが、このリーダーやメンバーが会の詳細について語れば語るほど「しょうもな」という印象が強まって行きました。しかも語り手は入会しない。

で、自転車を失った語り手は通勤ルートに徒歩を加えて健康体になります。奥さんも料理に気合をいれるようになり夫婦仲も円満でめでたしめでたし……ではなくて、語り手の心の隅にずっとJKの存在が引っかかり続けます。そしてある日、空気入れを購入し、街中の自転車に空気を入れて回る。この行動の必然性がまったくわかりません。そして最後、夫婦喧嘩をした後の午前二時、ひとり起き出した妻は自転車をハンマーで殴る音が「かん。/かん。/かん。(p.88)」と響きます。二時、ハンマー、自転車を殴る女、という道具立ては丑の刻参りのつもりなんでしょうけれどもう無理やりすぎてついていけませんでした。

終始そんなわけないだろの連続で、ついていけなかった作品でした。ライトノベル風味ならこの程度のリアリティでも問題ないとは思うんですが。掲載紙まちがえてませんか?

筒井康隆「ペニスに命中」

出典:『新潮』2014年1月号
評価:★★☆☆☆

多作で人気あるわりに筒井康隆を僕がいまひとつ好きになれないのはなんでなのか。長年の疑問ですがこれを読んでも「やっぱ合わない」と再確認しつつ、なぜそうなのかわかりません(笑)。スラップスティックがこの作家の持ち味の一つなのは確かながらそれがことごとく僕にはスベッてるようにしか思えない。

つまらないんですよね。なんといえばいいのか、「めちゃくちゃなことを書く」ことと読者の頭のなかで実際に「めちゃくちゃなことがおこる」のとは別モノのはずです。たとえばここでブログを書いている僕が「生身の僕は実はアメリカ人女性(57)なんです」といったところで、それに論駁する証拠はないにもかかわらず、信用する人なんてほとんどいないはずです。それを筒井康隆は、書かれたことがそのまま読者のあたまのなかで現実に展開するというような、楽観的といえばいいのか能天気といえばいいのか、書き手本位の態度が根底にある気がします。書かれたことにリアリティを付与するのは文字(たまに図像)のみでなりたつ小説の腕の見せ所、のはずがリアリティ付与の仕方がとんでもなく雑──「僕はアメリカ人女性(57)です」と言い切るだけに終始し、それに纏わる様々な情報によって読者を説得するあるいは騙すことを放棄しているような書き方──で、とても僕の頭の中を沸騰させるような内容にはなってないことがほとんどです。「三字熟語の奇」ぐらい割り切って書いてくれればそれなりに楽しめもするんですが……。

前置きが長くなりましたが本作「ペニスに命中」。

 食卓の上の置時計がわしを拝んだ。時計とは柔らかいものだが、人を拝む時計というのは面白い。珈琲カップを床に叩きつけて割ってくれと頼んでいるのでわしはそうした。(p.20)

俗っぽいですよねえ。

語り手の「わし」が息子に渡すはずの200万円を手にとって街に出、講演に乱入したり拳銃をぶっ放したりします。僕にはやっぱりそう書いてあるだけで、その出来事の一つひとつがリアリティを持ちません。読みを撹乱する仕掛けはいろいろあります。「わし」が客引きのお姉ちゃんに連れられバーに入っていって

「暴力バーかそうでないかはあと二ページ読めばわかる」(p.27)

とあり律儀に二ページ後、

「気が違っているのではない。強盗だ。早く警察に電話せんか。いったい何度言えばわかる。この聞き分けのない練羊羹めが。よし」わしはいきなり拳銃を発射した。(p.29)

と自分が暴れて「暴力バー」です、というオチ。それに「この聞き分けのない練羊羹めが」ですよ。「この○○めが」ってなんの躊躇いもなく書いてしまえるセンスに悪い意味で脱帽です。「聞き分けのない練羊羹」という表現もどうかとおもいます。

あるいは

「それならわしがこの汚らわしい売春婦を成敗する。毒蜘蛛を腹に飼いびちょびちょの開口部からムジナが顔を出しているような女をなぜ逮捕せんか。だから警察はデンドロカカリヤだと言うんだ」(p.30)

騒ぎをおこした「わし」が暴力バーから出てきて、同伴している女性を警察に逮捕させようと口にしたセリフです。「女」にかかる形容はおもしろくもない無意味な言葉をただ羅列しただけにしか過ぎないです。「デンドロカカリヤ」もただここで言葉として出て来ているだけでなんの意味も感情も喚起しません。「デンドロカカリヤ」や「ユープケッチャ」のような安部公房の短編あるいは細部の表現にみられるような、詩性とメタファーの独特な融合もまったくありません。できあいの言葉をただ組み合わせただけの安易さ。

全編この調子です。既視(読)感のある描写や言葉の羅列は読みすすめるごとに徒労感が増すばかりで、読み終っても99パーセントは楽しめませんでした。唯一クスッときたところを引用するなら

わしは庫内の奥の方を眺めまわしながら笠智衆の声色で言った。「実は君の座っているところに三十年前、わしも座っておってね」(p.34)

ぐらい。これは唯一、笠智衆の声で脳内再生された=リアリティのあった箇所。

視点の取り方と語りのミスマッチもあります。

 逃げる途中、死後硬直のまま歩いてくる婆さんと衝突した。死後硬直の婆さんが大声で悲鳴をあげたため、わしはさらに逃げた。(p.26)

視点人物は「わし」、その「わし」の一人称語り小説なので、婆さんが死後硬直しているかどうかは認識しえないはずです。にもかかわらずそうだという。書き手の意識と語り手の意識とがごっちゃになっている。語り手がいったことを読者がまるまる信じきるわけではないと再三いってきたとおりここもその例にもれません。「死後硬直している老婆」が「歩く」とか「大声を出す」という撞着語法的効果を狙ったのかもしれませんが大失敗です。木下古栗が「新しい極刑」で表現した「歩く屍」たちの圧倒的な迫力とレトリカルな技量の高さとくらべれば、こちらは無残な失敗例です。全体に雑すぎるし工夫もありきたりだし、総じて小説好きな中学生がお遊びで書いたスラップスティックものと大差ない作品です。

墨谷渉「今宵ダンスとともに」

出典:『群像』2011年11月号
評価:★★☆☆☆

年末で本の整理なんかもしているので売るか押入れの奥にしまうかする前に読み残しているものにはざっと目を通しておこうと2011年の『群像』から。以下の作品紹介は『群像』サイトより。

住設機器メーカーに勤める庄司くんは、工場の製造ラインのことばかり考えている。交際している中野理美さんとの結婚を考えていたが、彼女はマサという男と密会しているらしい。庄司くんはどうしても中野さんの自分に対する「本当の評価」が知りたくなり、ある行動に出るのだが――。フェティシズムや暴力、快楽を書き続けてきた墨谷渉の新境地!

読み終えて自分であらすじまとめをしようとしていたのですがうまくまとまりませんでした。上の内容紹介だとじつにうまくまとまっていますね(笑)

人間をとらえる観点はさまざまあります。ある人Aとある人Bとがいれば、その人がどういう役割を期待されているかによって(たとえば将来の配偶者、工場の現場主任、浮気相手など)さまざまの観点から比較されることになります。Aさんの学歴はどうで、収入はどうで、見た目はどうで、性格はどうで、それにたいしてBさんは……、比較すればAさんの勝ち、という感じ。これはあたりまえといえばあたりまえですね。今の社会では社会生活をおくる以上特定の観点=指標から評価されるのはさけられず、人間存在がさまざまの指標に還元されてしまって、その見方を推し進めるともうその指標「だけ」の存在として自分自身をとらえてしまうような認識の顛倒が起こってしまいがちです。そういうニヒリズムにたいし自分の身を実験台にした男のお話として読みました。

「評価」に漠然とした疑問を抱く本作の主人公庄司くんの行動がなかなかスリリングであり、ばかばかしくもあります。

それに、もうすぐボーナスです。ボーナス額は、基本給ベースに査定期間の評価によっても左右されます。仕入れ個数、金額、コストダウン率、不良発生率ppm、勤務態度、上司コメントなど。仕事面だけでもこれだけの細かい基準に基づいてある程度理論的に評価されるのに、と庄司君は思います。男性としての評価はさっぱりはっきりしない。思いつくまま、庄司くんはその場合の項目を書きだしてみます。顔、体型、身長、収入、将来性、性格、優しさ、会話力、センス、学歴、IQ、資格、免許、技術、健康状態、体力、生殖能力、運動神経、包容力、顔……は、正直負けているかもしれない、しかしもちろん人によってタイプというものがある。体型も、標準だが男は細身、そこにも好き嫌いは入る、また筋肉質かどうかは確かめていないし。身長は負けている、しかしほぼ標準内ではある、収入はわからない、将来性は負けてはないかな、いいお勝負じゃないか。性格、優しさはわからないがやや自信がないかも……しかしいくらこんなことを考えていても埒が明かない、と庄司くんは思いました。心の部分やタイプ、好き嫌いは数値化できないし感覚的なものが入ると判断が難しい。しかし、それでもできる限り把握しなければならない、と庄司くんは思いなおします。(pp.177-8)

書きだすだけでもうんざりするくらいありますね。

評価にオブセスされている庄司くんは、恋人の浮気相手と同じ車を買って、恋人の前に現れ、恋人に捨てられることになります。この点を庄司くんの立場からいえば、恋人はさまざまな指標を比較考量のうえで浮気相手を選んだのを確認したことになります。ここに至るまでの庄司くんの身振りからは、人をなんらかの指標によって評価することに、疑問とかすかな反感があるように思えます。庄司くんが抱くような感慨をだれしも多かれ少なかれもっていることと思います。だからいってみればこれはまあ、いまさら小説で読まされるまでもない当たり前のことなんですよね。

ここを深く掘り下げるのであれば、庄司くんと逆の立場の人=評価する側の人を、丹念に描くべきではなかったか。100人だか1000人だかを評価する人事の人の立場からの見え方や、中野さんが庄司くんに物足りなさを感じるようになったいきさつなど。基本的には庄司くん視点なので、評価で成り立つ世の中にたいする「もやもや」を抱えたまま、読者もそのもやもやが一向に解決しない(笑)。小説として目のつけどころはキャッチーなんですが、主人公の知性と認識の限界がそのまま小説の限界になってしまってますね。また、庄司くんが終始抱く「ライン」へのこだわりはこじつけ以上のものを感じませんでしたし、作品タイトルは作品の細部の小ネタを説明するためだけにつかってしまうのはもったいないです。

物語ラストで、恋人に捨てられそれまでの仕事を投げ捨てて、下請け工場のラインの仕事につくというのも安直に感じました。その仕事もやはり評価はついてまわるものでしょうしね。完全に評価から逃れるのなら、もう他人との関係を断絶して行方不明になって自給自足するしかないんじゃないでしょうか(ホームレスだって古参と新入りとの序列がありますしね)。

最後にフォローしておけば細部での面白さは多々ありました。

ワタリガニのクリームスパゲティを食べる中野さんを、庄司くんは観察します。今庄司くんとワタリガニを交互に見ている中野さんの目には、昨夜マサ(浮気相手)の顔や身体が映っていて、器用にワタリガニを剝く指は男の身体を触り、その身を食べる口はどうしていたのか。(p.190、カッコ内は引用者注)

作品のクライマックスともいうべき、庄司くんと中野さんと浮気相手とが同席する合コンのシーンも緊張感がありました。ですので個々の場面では面白く読んだところもあったものの、全体としてみてみれば、けっこう当たり前のことばかり、深さがたりない、オチが安直などで、いまいちという評価に落ち着きました。社会主義思想家の本や、労働社会学、組織社会学系の論文、あるいは労働者のルポルタージュ、インタビュー、しんぶん赤旗などを読むほうが僕にはよほどスリリングです。

戌井昭人「どろにやいと」

出典:『群像』2014年1月号
評価:★★☆☆☆

『群像』の表紙もお正月モード、白地に梅の紅白に金文字を散らして、じつにお目出度い装いです。1月号の文芸誌のなかではこれがいちばん目に楽しいですね。文芸誌をジャケ買いする人っているのか謎ですが、無愛想な表紙よりはこういうポップなほうがとっつきやすいことは確かです。

取り上げるのは戌井昭人の「どろにやいと」。前に「すっぽん心中」を読んで、駄目な邦画を文字で読まされている以上の感想を持てずに評価を星ひとつにした記憶があります。ほかに戌井昭人の作品でいうとやはり芥川賞候補になった「まずいスープ」。こちらは肩の力の抜けた人間関係と描かれていた家族との取りあわせが心地よかった印象が残っています。そして本作「どろにやいと」を読了後抱いた感想はといえば、毒の抜けた『高野聖』。

「天祐子霊草麻王」という名のお灸を自家調合して全国を売り歩いた父親の家業を継いだ息子が、これまたお灸を行商して回る、という話。山の中にわけいって酒を飲んで酩酊したり、妖しい雑草を食べかけて命を落とす危険に身をさらしたりと、読み進んでいくにつれ、読者も本作の語り手とともに人外境に踏み込んでいくような作りです。「人外境」といったのには理由があって、昆虫や獣など、人間以外の生きものについての言及が文字テクスト上にちりばめられています。

ホットパンツからのぞいた太もも、その下の右ふくらはぎには、赤子の手のひらくらいの大きさの蜘蛛の刺青がありました。(p.70、強調部は引用者、以下同)

のような冷たい足になって首を締め付け(p.71)

ニヤリとして、ネズミの糞みたいな黒い種を(p.71)

「泊まっていってもいいんだぞ、捕まえたからよ、食ってくか?」(p.75)

ラクダシャツ(p.76)

「山道結構きついですからね、気をつけてくださいよ。イノシシとかが出ますから」(p.80)

ひからびたトカゲの死骸

ほかにも絵馬にはめ込まれた閻魔大王や鬼やをずらずらと羅列する箇所もある。自覚的にひとつの意匠として人間以外の生きものを取り入れるのは、山奥での出来事という作品のロケーションともあいまっておもしろくなりそうな芽はあるんですが、それがことごとく引用のための引用で終っています。動物や想像上の生きものを作品のなかに引用することに精いっぱいになってしまっていて(あるいはとりどり引用すればそれでよしという基準が書き手側にあって)、それが引用することでいったいどういう効果を上げているのかまで、十分考え尽くされていません。

たとえば上の引用箇所で、おどろおどろしさを出すのなら、「ネズミ」ではなく「鼠」、「ラクダ」ではなく「駱駝」、「イノシシ」ではなく「猪」、「トカゲ」ではなく「蜥蜴」でしょう。片仮名書きしてしまうことで読み手に与える視覚的な効果、重々しさが減殺されてしまっています。付け加えるなら、同じ人の発言で「イノシシとか熊が」と、いっぽうはカタカナ、いっぽうは漢字で書いてしまっているのはもう、戌井昭人の文字表記にたいする無自覚さ露呈しているというほかありません。甘いぞ、ドモン!

甘さついでにもう一点。作品冒頭で語り手が自己紹介するくだりがあります。

 わたしは、お灸を売りながら各地を歩きまわっている行商人です。お灸は「天祐子霊草麻王」という名称で、父が開発しました。もぐさの葉を主に、ニンニク、ショウガ、木の根っこ、菊の葉を調合して作っています。(p.56)

「ニンニク」「ショウガ」のカタカナ表記はもうおいておくとして、その次の「木の根っこ」。これは列挙された四つの材料のなかで、一つだけ上位カテゴリに属するものでやはり浮いてしまっています。たんなる木の根っこではなくて、「何の」木の根っこか書くべき。また、あいまいに木の根っこといってしまっては、父から伝えられたレシピでお灸を調合・販売しているこの語り手の存在にうさんくさい目をむけてしまいます。このへんも書き手の甘さを感じました。

作中ではどぶろくで酔っぱらうくだりもあって──ちなみにこのどぶろくを「ミツゾウ」とカタカナ表記しているのには唸らされました、聞き手にとってなじみのない単語はカタカナの違和感がぴったりですし、なんてったってカタカナ表記することで「ゾウ=象」がはめ込まれているのですから──『まずいスープ』中で古今亭志ん生にふれていたように、このくだりも桂枝雀の「猪の酒」を連想させるところが、この書き手と落語的世界との相性の良さを感じさせます。ただこの個所も思わせぶりなだけで描写じたいの魅力もとぼしい。描写というよりはト書きでした。おもしろさの片鱗はありながらそれを生かしきれぬまま不発というか中途半端というか力不足というか神経がいきわたってないというか。

堅苦しさや真面目さ一辺倒の人間像にたいしてどうにかして別の人間像を描こうとしている意志は感じられるものの、それが小説を書くとなったとたん、書くことにいっぱいいっぱいで、書かれたあとの文章がどういう効果を出せているかにまでは頭が回っていない印象でした。たとえば脱力感満載の人間を描いても読後に十分な引っかかりをのこしてくれる松波太郎のような書き手と比べるなら、戌井昭人を読む価値はありません(戌井作品を読むなら既読の松波作品を二読三読するほうが得るものがあります)。『高野聖』や落語のような先行作品の消化も中途半端です。

(追記)『高野聖』オリジナルは、同宿の僧が寝物語に語る妖怪話というフレームだけでもおどろおどろしい。さらに動物や虫類、物の怪をちりばめたテクストも本作のように毒抜きではありません。参考までにいくつか引用しておきます。引用元は青空文庫。

ああさっきのお百姓がものの間違でも故道(ふるみち)には蛇がこうといってくれたら、地獄(じごく)へ落ちても来なかったにと照りつけられて、涙が流れた、南無阿弥陀仏、今でもぞっとする。

「蛇」のそばに、「地獄」や「南無阿弥陀仏」が配置されています。

大蛇(おろち)の蜿(うね)るような坂

「大蛇」のそばに配置されるべきは「うねる」ではなく「蜿る」です。

見ると海鼠(なまこ)を裂さいたような目も口もない者じゃが、動物には違いない。不気味で投出そうとするとずるずると辷(すべ)って指の尖さきへ吸ついてぶらりと下った、その放れた指の尖から真赤な美しい血が垂々(たらたら)と出たから、吃驚して目の下へ指をつけてじっと見ると、今折曲げた肱(ひじ)の処へつるりと垂懸(たれか)かっているのは同形(おなじかたち)をした、幅が五分、丈が三寸ばかりの山海鼠(やまなまこ)。
 呆気あっけに取られて見る見る内に、下の方から縮みながら、ぶくぶくと太って行くのは生血(いきち)をしたたかに吸込むせいで、濁った黒い滑らかな肌に茶褐色の縞をもった、疣胡瓜(いぼきゅうり)のような血を取る動物、こいつは蛭(ひる)じゃよ。

ここまで圧倒的だと解説するだけ野暮ですね。この引用箇所を含む蛭のくだりは『高野聖』のなかでも僕が一番好きなところです。

本谷有希子「トモ子のバウムクーヘン」

出典:『新潮』2014年1月号
評価:★★☆☆☆

「悲劇は立場をかえてみると喜劇だ」のように、立場を変えてみるとものの見方がガラッと変わることは誰しも経験したことあるだろうと思います。「立場を変える」を「視点を切り替える」と読み変えてみればこれはまさに小説の得意分野であって、これを利用しない手はありません。

本谷有希子の本作もそういう趣向で、外から見れば「バウムクーヘン作りにいそしむ主婦が途中ソファーで休憩をとってまた再開した」というだけの話を、主婦トモ子によりそう視点からみてみると実は……というつくりになっている。読者はもちろんトモ子なんて人とはこの作品ではじめて出会うわけですから、読者視点はあくまで「外から視点」。トモ子のことを他人事と考える読者の視点を、どうやればうまくトモ子の視点に同調させられるか、トモ子のあじわう恐怖をどうやれば読者にもあじわわせられるか、が本作の成功のカギをにぎっているはず。

結果からいってしまえば僕にはトモ子の視点に最後まで同調できず、身の回りにおこるたんなる日常の出来事にいちいち裏の意味を読み取ろうとするこじつけ気味のトモ子の思考にイライラしっぱなしでした。トモ子が大げさに妄想するたび「そんなのただの思いすごしじゃん」と鼻白むばかり。作品冒頭はこんな感じ。

コンロの火を弱火にしていると、トモ子には、この世界が途中で消されてしまうクイズ番組だということが、突然理解できた。(p.146)

合理的に考えるなら、「この世界はクイズ番組だ」と積極的に肯定できる証拠が出てきた時点でそうだと同意すればいいだけで、読者にはその証拠は何も与えられていません。よって物語冒頭でのトモ子の確信する世界観と読者の世界観とはかけ離れている。このままではあくまでトモ子のひとり合点なので、他人が抱く「そんなのただの思いすごしじゃん」という軽いあしらいを、どうねじふせて説得するかが書き手の技量に掛かっています。けれど書き手のほうで読者を説得する気ははなからないのか、ずっとこの妄想が垂れ流されるだけ。トモ子の妄想は読み手(すくなくとも僕)の認識と最後まで架橋されず、最後まで他人事あるいは対岸の火事にとどまったままでした。

ソファーのそばに飼い猫のウーライがやってきて

「何が目的?」トモ子はソファに寝そべったまま口にしていた。「ウーライを操ってるやつ、何が目的なの?」(p.148)

これもトモ子本人には飼い猫ウーライが何かに操られていると確信させる何かがあるはずなんでしょうが、その「何か」は読者に示されずじまい。したがって、ここでも読者はトモ子の一人芝居を白けて見せられているだけ。

今になって気になっただけかもしれないが、水滴は拍子抜けするくらい単調なリズムを作り続けていた。ボタ、ボタ、ボタ、ボタ。(p.149)

水滴が落ちるくらいどこのうちでもあるでしょう。トモ子が感じているはずの恐怖を読者は全く共有できませんし、極めつけは、「ボタ、ボタ、ボタ、ボタ」なんて間の抜けた擬音をつかっちゃうとこれはもう漫画です……といった瞬間漫画に失礼だと思いなおしましたので、さらにいいなおして、これはできの悪い漫画あるいは小学生の作文レベルの表現。

「なんだかわからないけれど、このままだと何かとてつもなく大変なことが起こりそう」という妄想に取りつかれる状況を、たとえば精神病理学──僕はオカルト科学読み物として興味深く読むわけですが──のなかには「アンテ・フェストゥム(祭りの前状態)」と名付ける人もいて、それに関するドキュメント、著作もままあります。少なくともこれらのドキュメントは、精神分裂病(呼び変えられる前の報告なのでこのことばで呼びます)と診断された患者らの実体験にもとづいた報告であって、それを読む僕はその世界観は共有できないけれどもしかしその患者本人にとっては本当らしく感じられる真実味を想像的に追体験します。結局、これら症例報告にあって、短編小説「トモ子のバウムクーヘン」にないのは、世界の崩壊の予兆を体験している人間が、その予兆を真実そうだと感じているかどうかという真実味にあるんじゃないでしょうか。もちろんトモ子というのはフィクションのなかの存在ですからより正確にいいなおすなら、書き手である本谷有希子が、トモ子が感じているとされる「なにかがおかしい」という恐怖を本当に信じてあげられていないのではないか、どこかで本谷本人が「結局作りごとでしょ」と一線を引いてしまっているのではないかと思うのです。一線を引いていても、書かれてあることをさも本当のことのように読者に信じ込ませてしまえるのならそれも歓迎なんですが、この作品の文章にはそういう技量も見つけられません。
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