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片瀬チヲル「コメコビト」

出典:『群像』2013年4月号
評価:★☆☆☆☆

うーん。前にこの書き手が群像新人賞の優秀賞をとってデビューしたとき、あまりにもな完成度に新人さんにもかかわらずきつい感想を書いてしまったので、今度読むときはもっといいところ取りあげるようにしよう、となるべく温かくむかえる心がまえでいたのですが、今回、受賞後第一作となる短編「コメコビト」を読んでみて、やっぱり厳しい評価してしまわざるをえません。優秀作受賞作品から退化したんじゃないか。

とはいっても、優秀賞受賞作はアマゾンレビューでは評価高いようですから、作品そのものが面白くないというよりは、この書き手の作風が僕と相性悪いだけということなんだろうと思います。ではどこが相性わるいのか。以下、この短編を読みつつ思ったことを書いていきます。

作品には、コメコビトという炊飯器うまれの想像上の生きものが出てきます。米の妖精なんていってしまえばファンタジックになっちゃいますが、描かれ方はもっとリアルで、炊飯器で炊かれたご飯に人間の体がくっついたような頭でっかちな存在。妖精というできあいのことばを避けて、「コメコビト」で一貫しているところにこだわりがかんじられるものの、まず肝心の、こだわりの存在のキャラクターが確定しません。というのは、生まれたばかりで炊飯器の持ち主とおぼしき女性蓉子とであうのですが、初対面で

「あんまり乱暴にするなよ、しないでください」(p.114)

と蓉子にむかって言い放ちます。これが彼が生まれて最初の発言。生まれて初めての発言で、初対面の相手との関係を察知して、「するなよ」という命令口調から「しないでください」というお願い口調にとっさに言いかえるところは、対人関係を即座にとらえ機敏に反応できる賢さが表現されています。お願い口調になったことからわかるように、蓉子を自分より上位に位置するの存在として認識し、

コメコビトは蓉子の子となることにした。(p.114)

と母子関係をむすびます。子供側から親を選択、決定できるなんて設定としておもしろい、と僕には思えるんですがこの母子関係はこの後展開しません。それどころか母子関係が忘れられてしまったかのごとく友達口調で話し出します。

蓉子は、学校へ行く前にかならず、バナナを鞄へしまうと、リンゴを取り出して丸かじりしていく。
「蓉子、アメリカンだね」
「白雪姫っていってよ。コメコビトの発想には糖分が足りてない」
「アメリカのホームドラマで、リンゴ丸かじりにしてるの見たよ」(pp.115-6)

この友達感(笑)。学校行くまえの朝なら、直ぐエネルギーにかわるバナナを食べて鞄のなかで圧力や温度が変化しても変質しないリンゴを鞄にいれておくんじゃないかなとか、「学校へ行く……していく」は重言じゃないかとか、友達みたいな親子関係というのもないことはないかと、次々頭をもたげてくる疑問を強引に飲み込んだとたん次の台詞。

「コメコビト、あなたにも婚約者がいるんだから、いいでしょ」
「コンヤクシャって何。どんな人、なんて人、どうして」(p.116)

初対面の人間との上下関係を即座に察知し、テレビから情報を得ている、それもホームドラマを視聴しているコメコビトが婚約者という単語を理解できないという設定は一貫性にかけます。婚約者という言葉が意味するところは知らなくても、蓉子が家につれてきた婚約者の彰二君(上の台詞で「あなたに『は』」でなく「あなたに『も』」といっているところから彰二君が婚約者だと知れます)という男性が登場すると、コメコビトはあからさまに不快感をあらわします。そもそも婚約者が何を意味するか知らないにもかかわらず、二人の関係に不快感を表明しているのは矛盾じゃないでしょうか。それに、母親が連れて来た婚約者とキスを交わしたことに、真っ向から不快感を表明する台詞(「蓉子、学生のくせに早いよ、まだ早い」(p.116)は子供視点からの発言でしょうか。

「深呼吸しなさい」
「やーー」
「あなたの頭が大きいのは、耳垢のせいなのよ」
「やーー」
「それのせいで、人の声も自分の声も聞けないのよ」
「いーー」(p.118)

上はコメコビトの婚約者といわれるシャモジンルイとコメコビトとの会話。少し手前で、母親である蓉子が婚約者とキスすると「学生なのにまだ早い」といつの時代のおっさんかと思うような古風かつ道学者的忠告を与えていたコメコビトが一転、自分が婚約者に耳かきしてもらうときには上のように幼児退行して、やーー、やら、いーー、やら連発してしまいます。ここにきてコメコビトの性格の一貫性が全く失われてしまいました。あと、婚約者というからには、結婚があるはずですが、コメコビトとシャモジンルイの結婚が最後まで読んでも何を意味するのかはまったく分かりません。タイトルにもなっているコメコビトの存在が場面場面でころころ変わりすぎて安定しないところ、これが大きなマイナスです。

他には不用意な言葉づかい、誤用とよべるものがいくつかみられます。

肘を掻いた時やくしゃみをした時などにその細胞は剝がれおち、誰の目にもとまらない小さなコメ粒になった。(p.113)

「目にもとまらぬ」は、動きのあるものがその素早さゆえにとらえられない、の意味のはずです。辞書ひきましょう。そして忍者ハットリくんのオープニングテーマを100回唱和しましょう。

コメコビトは真っ暗な部屋で手足を丸め、しゅうぱちと肌が粟立つ音を聞いていた。(p.113)

「肌が粟立つ」のは恐怖感の表現です。前後の文脈からコメコビトが恐怖を感じているとは受け取れません。辞書ひきましょう。また、コメなのに「粟」というのも引っ掛かります。さらに、次は誤用ではないですが前後の文意が矛盾しているもの。

その部屋の暖かさと湿度はコメコビトの関節の動きをよくした。彼は腕をあげたり足を曲げたりしたくて仕方なかったが、この狭さでは動けない。(p.113)

「関節の動きをよくした」というのは、どうよくなったのか具体的な描写で書けという初歩的な技術論はこのさいスルーします。で、関節の動きがよくなったにもかかわらず、狭くて腕や足が動かせない、というのは意味不明です。上の三つの文はどれもこの作品の最初のページに現われる表現ですが、僕のこの感想でのべた「今度はあたたかく読もう」という心がまえがいくらあっても、冒頭からこんなずさんな表現を連発されると、やっぱり前作の稚拙な表現のことが思い出され、最後までよんでも結局は前作から成長したところが読みとれずとても残念に思えました。他にも、電子レンジはチンと音がしたり、サナギコレクターという独特の存在の名称を出しておきながら最後の最後で「リス」などと不用意にいってみたり。もう作品を作る姿勢の詰めの甘さがこれでもかこれでもかと目について、やっぱり僕とは相性悪い書き手だなと再認識しました。文学作品ではないですが、ディズニー&ピクサーの映画で「バグズライフ」でも「カーズ」でも「WALL-E」でも「トイストーリー」でも、非人間を擬人化してしかも大人も子供も楽しめる傑作があります。お節介ですが、こういった先行作品を丁寧に参考にしてみたらいかがでしょうか。これらの傑作映画とこの短編を並べて見たとき、後者の魅力は一つもないように僕には思えます。もうこの人の作品は読まないことにしました。

戌井昭人「すっぽん心中」

出典:『新潮』2013年1月号
評価:★☆☆☆☆

交通事故で首がおかしくなり治療休職中の男と、家出少女とが出会って、霞ヶ浦までスッポンをとりにいく話。なんだか無駄が多くて、スカスカの短編。描写はフラットだし、エピソードは断片的だし(船着き場のエピソードはこの短編作品に必要だったでしょうか)、全体として完成度は低かったです。なにか、シナリオ科学生の習作を読まされたような、駄目な邦画を見せられたような、そんな読後感。

こういうダラダラした日常、とるにたりない出来事の積み重ね、とりたてて大きな事件が起こるでもない日々、というのがあるとしても、それを作品として、短編小説として、そのまま書いていいというわけじゃない気がします。取るに足りない出来事があるという事実と、それを短編小説として構成する作為との間には、ものすごく開きがあるはず。どこかに読み手にたいする読ませる意識がないと、ほんとうにつまらない、そんな作品でした。

「そうなんです。やっぱそう見えるか。本当は十九歳なんです。世の中、はたち超えてないと、いろいろ面倒でしょ。お兄さん、名前は?」
「田野、田野正平。きみは?」
「モモです」
「モモ?」
「うん」
「あだ名?」
「違う。漢字の百が二つでモモです。名字がモモ」
「本名?」
「本名」
「出身は?」
「九州、福岡」
「下の名前は?」
「下の名前はダサいから、聞かんで」
「モモモモ子とか?」
「それ、つまらん。モモでいいから」(pp.84-5)

小説を書くとはどういうことか、その自分に対する批評=問いが徹底的に欠けた作品です。

鹿島田真希「パーティーでシシカバブ」

出典:『文學界』2009年2月号
評価:★☆☆☆☆

21歳の女の子ミカが友人のユミから聞いたパーティーに、同じく友人のユイと、小説を書いているという男ボンクレーと参加してみるという話。とくに何が起こるわけでもなく、ただパーティーがあると聞いてそれに参加していろいろ見聞きしましたというだけの話が21歳の女の子の一人称視点で語られます。あまり深く考えていなさそうな女の子の思考ということで、単調な文末処理(~と思った、~と言った、~した)の過剰な連発も、とりとめのない表現が続くのも、まあこの語り手にしてはありなのだろうと我慢して読み進めました。我慢して、というのはあまりに何もおこらないし、あまりに語りも単調だしで、たんに面白くないからで、それでも我慢したのは、なにか仕掛けがあるに違いない、こういうくだらない言葉づかいにも何か意味があるに違いないと鹿島田真希という書き手を信頼してのことです。そしてそういう信頼を見事に裏切る言葉が最後に書かれてあったとき、一気に失望して、二度とこの書き手の本は読むものかと決意しました。

するとボンクレーが、突然なにを言い出すんだ、今までの話となんの脈絡もないじゃないか、と言った。だからわたしは、人間というものは、基本的に脈絡もないものなんですよ、と言った。そして自分で言ってみて、本当にそうだな、と思った。(p.176)

脈絡がないエピソードがただずらずら続くこの小説を、メタ的に言及している箇所です。日常起こっていること、日頃の行動や思考の一つ一つに、べつに脈絡なんてないというのは誰もが薄々は感じていることで、あえてこんなこと言われなくても分かっていることです。それをこの作品の作風の言い訳みたいにここで持ち出されては、たまりません。

もう一点、物事をあまり深く考えていなさそうな女子大生の一人称語りという点でも問題があります。単調で貧しい語彙による文末処理はまあ読む分にはくだらない退屈なものでそれはそれでいいとしても、統語レベルでみればきわめて整理された語順になっています。例えば一人称語りということでいえば、ウルフの一連の作品のように中断や黙説、飛躍を度々伴うものではないでしょうか? あるいは町田康の初期作品のようにぐるぐる自問自答を繰り返したり自己批判したり矛盾したりするものではないでしょうか? あるいは舞城王太郎の作品のようにいきいきしたオノマトペや言葉づかいで語られるものではないでしょうか? 残念ながらこの語り手の語りは中途半端に女子大生で中途半端に知的です。また、語彙レベルでみても、ときどきこの語り手にはそぐわない語彙が見受けられます(「婉曲(p.157)」「危惧(p.160)」「シャンソン(p.167)」ほかたくさん)。単語を取りあげて難詰するのは言葉狩りみたいで好きじゃないですがそれでも、語り手にそぐわない言葉づかいが多用されれば作品の語り自体がまったくリアリティをもたないことになってしまいます。こういったノイズが出てくるのは、語り手像をあまり突き詰めてないか、単に書き手がへたくそなのかのいずれかでしょうね。

この作品を読んだお前が勝手に鹿島田真希のことを「信頼」して読み進めて、勝手に「失望」しただけじゃないか、というご批判が聞こえてきそうです。事実その通りです。一方的に信頼して、一方的に裏切られたと怒って、単なる一読者の戯言です。だけどそんな独り言だとしても、一人の読者として裏切られた感はあるのでこの人の作品はしばらくは読みません。

片瀬チヲル「泡をたたき割る人魚は」

出典:『群像』2012年6月号
評価:★☆☆☆☆

言葉の無駄遣い、ぼやけた比喩の乱用、貧しい人間関係、幼稚な人物造形、中途半端な世界観、古今東西散々描かれてきたモチーフのなんの工夫もない利用。新人の作品を読むときはちょっとくらい雑なところがあってもこなれないところがあっても、「新人だから」という意識が働いてそういうところも「むしろ味」として読むようにしていますが、この作品に限って言うと読み進めるのが苦痛でした。苦痛の理由は冒頭にあげたようなもの。

幼稚なナルシシズムがいたるところに充満していて、書き手が自分の小説を批判的にみる目を全く持っていないことを露呈しています。比喩の乱用でイメージがぼやけ散り散りになってしまいます。

人魚というのは、二枚の花びらを蜂の針で縫い合わせるようにしてできあがると思っていたのに、そうではなかった。(p.61)

直喩は本来、知的な操作に基づくレトリックのはずです。「○○のように」というフレーズは普通○○の部分に誰しもが了解しているようなものを持ってきて、その○○とは容易に結びつきそうもないものと結びつけて、「ほら、似てるでしょ」と指し示すレトリックです(見たこともないもの、聞いたこともない言葉で表現するタイプの比喩については高度なのでここでは触れません。)。そしてその「ほら、似てるでしょ」にどれだけ多くの人が納得するかが直喩のキモ。かつ納得すると同時に意外性もあればそれがよい直喩です(「想像もしてみなかったけど、言われてみればたしかに似てる!」)。ところがこの引用部では、「二枚の花びらを蜂の針で縫い合わせる」という事態が、少なくとも僕には全く馴染みありません。花びらはふつう扁平でペラペラなもの。それを蜂の針(蜂を潰して抜き取るのでしょうか?)で縫い合わせるとはいったいどういう事態なのか。しかもそれがちょうど、人魚の上半身と下半身がつながる仕方と同じであると思っていた(実際にはそうではなかった)、とのこと。上半身の人間にしろ、下半身の魚にしろ、花弁のように薄くペラペラでしょうか。僕には全くそのようには思えません。この直喩に納得できる人は頭の中がお花畑でしょう。

僕が恣意的にできの悪い箇所だけを取りだしていない証拠にいくらでも上のような不鮮明な直喩が取りだせます。直喩に限らなければもっと。

薫の両足は、分厚い辞書を閉じるように隙間なく結合した(p.61)

辞書の文字が紙から浮かび上がってごちゃまぜに黒く黒く重なり合うように、言葉ではなくなった苦しみで頭が埋まっていく。(p.62)

ネコジャラシの王様みたいな花を咲かせる菖蒲(p.65)

山に走る亀裂のように乖離している布団の間に、二人のこぶしが落ちる。(p.75)

書き写すさきからキーボードが腐る気がします。これらのどこが駄目な直喩かわからない人はおそらく著者と同じ言語感覚の持ち主なんでしょう。おめでたい。

人間関係にしても、瀬戸君にしろ村井君にしろ山越君にしろ、どの関係も「恋」とは異なるとたびたび言われますが、そもそもこの作品の中で「恋」がどのように規定されているのかはっきり述べられていません。「恋」するかどうかが作品の重要なキーとなっているはずなのに、そもそもの「恋」がぼやけているのではなんもいえねえ。どの男性の造形も類型的すぎて、かつ主人公の女に都合よくつくられすぎていて、全くの失敗。「飲物を配達して暮らしている魚になりたい願望の女(20過ぎ)」になぜこうもまわりの男たちは優しいのか全く理解不能です。いい歳してぺんぺん草と遊ぶような瀬戸君の感性を理解できるお花畑の読者なら理解できるのでしょう。

人物造形の失敗についても延々ダメなところをあげられますが面倒なので一点だけ。「顎の下とか耳のうらとか、眉間だとかに、コメ粒よりおおきい絵の具をつけている」絵描きの瀬戸君ですが、クローゼットには「白いワイシャツしか入っていない」そうです。顔の汚れてしまう状況にある絵描きの男が白いワイシャツしか着ない(汚れがあるという描写はなし)というのは極めて現実感に乏しい。これは作品の中の生きた人物というより書き手の趣味か、単なる不注意な描写です。現実の美大、芸大前をちょっとでもうろつけば、みなさん結構ガテン系のつなぎとか着てドロドロに汚れながら作品と格闘していますよ。とにかく妄想先行で生み出された瀬戸君。人物造形の甘さにも目をつぶって、瀬戸君すてきーといえちゃう人はお花畑なんでしょう。

魚屋ガテン系の村井君、アート系夢追い人の瀬戸君、唐突に現れて求婚する大金持ちの山越君。あまりにも類型的すぎて(何十年前の少女マンガでしょうか)お話にならない人物造形ですが、寓話として一定の役割を与えられているのかもとも考えました。アリとキリギリス、みたいな典型を通して何かを語ろうとする諷喩的手法を使っているのならそれはそれで納得もできますが最後まで読んでも決してそうは思えない。近現代のセクシュアリティ研究の枠内でこの作品の人間関係も語れそうです。なんの新しさもない。

それに、寓話にしたって世界観の構築が極めて中途半端です。様々な色の泉がきれいな水を湛えている島の右側だとか、ピタニィという変わった飲物だとか工夫しようとする姿勢はうかがえるものの、一方で小学校中学校高校だとか、原チャリだとか、寓話にはそぐわないあまりに現実的な単語が安易に使われてしまいます。結局書き手の頭の中で、この世界を突き詰めていないからこういう甘さがでちゃうのでしょう。人魚を使えば即寓話になってしまうわけではありません。「人魚になってみたーい!」「ピタニィ気になる!」と言える人は、この世界観に対してあまりにも(略)

新人の作品ということを割り引いても、僕の目には駄目なところしか目につかない作品でした。根底にあるどうしようもない幼稚なナルシシズムがずっとつきまとい、小説のよさげなところを徹底的に台無しにしています。僕のいうことが理解できない人は例えば次のような仮定をしてみてください。この作品をお笑い芸人のなかから、ナルシスティックな人を選んで演劇にしてみるのです。主人公の女はアジアン隅田、瀬戸君はノンスタ井上、村井君は狩野英孝、山越君は南キャンの山ちゃん。これらの芸人たちが自分の容姿と演技に酔って舞台に立つ「泡をたたき割る人魚は」。とても見れたもんじゃありません(恐いモノみたさしかありません)。

群像の下読み委員の方、これのどこが他の候補作より優れていると思われたのでしょうか?

笙野頼子「母のぴぴぷぺぽぽ」

出典:『文藝』2012年秋号
評価:★☆☆☆☆

笙野頼子さんの小説は読者を選ぶのだと思います。彼女の個人的な論争相手とか、怒りの矛先の論者がどのような主張をしていてかつ彼女がいいたいこと(主張しそうなこと)をあらかじめ予想できる読者でないと、この作品を読んでもいったい何が言いたいのか全く読み取れません。

なにか主張したいことが明確にあるなら論文なり評論なり書けばいいんじゃないでしょうか。あえて小説という形でこんな分けのわからないものを書いて、自己満足以外に書き手になにが残るのでしょうか。『タイムスリップ・コンビナート』の切れ味は無くなり私の中では完全に終わった作家だということを、この作品を読んであらためて認識しました。

優秀な評論家先生が解説してくれるのをおとなしく待とうと思います。
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読む人

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