スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

小説を書く人へ

社畜の宿命で僕はこの4月から激務の部署に移ります。異動にともなうもろもろの雑事におされてブログを続ける時間がとれそうにありません。小説を読む時間は無理してでも取ろうとは思うのですが、今までのように、文芸誌に掲載されているうちの、屑みたいな習作を我慢して最後まで読み通す(そしてその腹いせに罵倒のことばをここにかきつける)なんてこともできそうにありません。反対に、発表されたらすぐ忘れ去られてしまうかもしれない、けれどこの傑作の感想だけは書いておかねばと思わせてくれる小説の感想を残す時間もなさそうです。まして休日に図書館に通うなんてしばらくできそうにありません。

どうせなら社史編集室とか、9時5時勤務で日がな地下室にこもって会社あての封筒を開封する業務(本当にあるのかどうかしらないけど)でもさせてもらえれば悠悠自適に小説を読めるのかもしれないけれどそれはまだまだ僕の年齢では許してくれそうにもない仕事です。体が動くうちは会社のために働くよ!

という事情ですので更新は今後ありません。あるとしてもいつになるかわかりません。ということで最後に、小説を読む人から書く人(あるいは書こうと思っている人)へのメッセージです。


小説を書く人へ。

小説を読む人はたくさんいて、本も一人の人間の限られた一生では読みつくせないほどたくさん出版されています。読む人は貴重な時間のなかで、そのいくらかを小説を読む時間にあてています。限られた時間のなかで、まだ読んだことのない「新しい」小説に出会えることを夢見て小説を読み続けています。砂漠のなかで砂金粒を探すよりは確率が高いかもしれないけれど、それでも僕は文芸誌のみに限っても年100作品以上を読み続けてきてそういう「新しい」と思える作品に出会えたのは、2、3作品にすぎません。文芸誌以外を読んでいる比重のほうが高いもののそれをいれても10作品にいくかどうかです。

小説を書く人へ。

あなたの書く作品は「新しい」小説でしょうか。すでに誰かが書いている作品の、たんなる真似っこになっていませんか?何度もいうけれど、世の中は本であふれかえっています。読む人には選択肢が無限にあります。その無限の選択肢のうちから、何としてでもあなたの作品を開きたいと読者の指にうったえる作品をあなたは書いていますか? その無限の選択肢のうちから、何としてでもあなたの作品の一行を読みたいと読者の眼にうったえる作品をあなたは書いていますか? その無限の選択肢のうちから、何としてでもあなたの作品を暗唱したいと読者の喉にうったえる作品をあなたは書いていますか?その無限の選択肢のうちから、何としてでもあなたの作品の存在を他の読む人にも伝えたいとうったえる作品をあなたは書いていますか?

小説を書く人へ。

あなたの作品のライバルは、『ユリシーズ』であり、『失われた時をもとめて』であり、『ロリータ』であり、『響きと怒り』であり『百年の孤独』であり『カラマーゾフの兄弟』であり『モービ・ディック』であり──ほかにも数え切れぬほどのライバルたちがひしめいています。彼らがすでにどっかり自分の椅子に腰をおろしています。あなはたそのうちの、誰かの椅子に座ろうとしていませんか? 僕が読みたい「新しい」小説は、そういった既存の作家たちが必死に作り上げてきた椅子を、ずるがしこく掠め取ろうとするような小説もどきではありません。そうではなくて、不恰好でもいいから、無様でもいいから、どんなみてくれでもかまわないから、まだ誰も坐ったことない椅子を必死に作り上げようとしている、小説です。『百年の孤独』を水っぽく薄めた小説もどきを読むなら、読む人は『百年の孤独』を再読します。再読すれば読む人にはもうあなたの小説を読む時間も意味もありません。読む人が求めているのは、これまであまた書き継がれてきた小説のなかにあっても、他の作品をもって代えがたい、あなたの作品にだけしか占められない席を確保した(確保しようとあがいている)小説です。既存の作品の粗悪な模造品を読む余裕はありません。

小説を書く人へ。

あなたの作品のライバルは、小説に限りません。読む人には小説を読む以外にも、詩、歴史書、ルポルタージュ、統計資料、その他さまざまの読むべきもの、さらにさらにテレビ番組、映画、音楽、旅、外食、テレビゲーム、インターネット、囲碁将棋、アウトドア、スポーツ、もう無数のライバルがいます。それらのどれに読む人が余暇を充てるかは自由です。あなたの作品は、見たい映画を後回しにしてでも読ませる力をもっていますか? あなたの作品は、行きたいコンサートを我慢してまで読ませる力をもっていますか? くどいほど言うけれど読む人の時間は限られています、その限られた時間のやりくりのなかであなたの作品を手に取るのです。

小説を書く人へ。

たくさんのライバルで満たされた小説宇宙に、どんなライバルたちで犇いているのか知らず丸腰で飛び込んでいくのは自殺行為です。自分が死んでいることもしらずに小説もどきを書き続けるあなたに言ってやりたい、「おまえはもう死んでいる」。あなたがしたり顔で到達した惑星にはすでに、100年前に到達した書く人の旗が立っています。もし苦労して到達した世界が既知の惑星だったならそんなやりきれないことはないでしょう。ライバルたちを知ってください。どんな星が、どれくらいの輝度で、どのあたりに輝いているのかを知るために、日々、自分の天体地図を更新していってください。更新されない地図にたよって小説宇宙を泳ぐ「ベテラン」作家たちの宇宙船はもう燃料不足状態です。そんなものお手本にする価値はありません。お手軽にツアー旅行できる距離の星へ宇宙船を定期運航する仕事は、他の作家に任せてあげてください。あなたにしか到達できない星を目指すには、小説宇宙の詳細で最新の航海図が必要なはずです。どうか航海図を圧倒的な勢いで更新し続けてください。

小説を書く人へ。

どうか、新しい小説を書いてください。あなたの、渾身の力をこめた新しい小説を待っている読む人は絶対にいます。発表してすぐはいないかもしれません。けれどあなたの小説が真に新しいならば、5年後10年後20年後もしかすると100年後の読者に確実に届くはずです。あるいは日本語以外のことばのなかであなたの作品を待ち続けている読む人もきっといます。だから、どうか、既存の作品や時代に媚を売ってすり寄るのではなくて、あなたの身辺雑記でもなくて、あなたの社会生活の単なる不満や性欲のはけ口でもなくて、あなた以外の誰もまだ到達したことのない世界を、ぜひあなたのことばで読む人に見せつけてください。僕はもう、文芸誌のすべての作品に目配りする余裕はありませんが、それでも小説は読み続けます。文芸誌の目次に数少ないながら忘れ得ぬ書き手の名前を見つければ無条件でレジに走ります。新規に刊行される作品に読むべきものがなければ既刊の忘れ得ぬ小説のページを時間の許す限り何度でも繰ります。いつまでも、読む人たちは新しい小説の登場を待っています。


小説を読む人より。
スポンサーサイト

黒井千次「紙の家」

出典:『文學界』2014年3月号
評価:★★★☆☆

コルタサルの短編に、着られそうでなかなか着られないセーターにひたすら悪戦苦闘するだけの傑作があります。そこでは何が起こっているのでもなく、ただただ「セーターを着ようとする(でも着られない)」の実況中継がくりひろげられるのみ。徹底的にナンセンスながらそのナンセンスが文章で過剰に堆積していきやがて飽和点を超えると癖になる笑いに結晶化します。読み始めは「なんぞこれ、意味ないじゃん」と思って油断しているんですが、読んでいるうちに作品のリズムにうまく読み手がはめられて癖になる感覚といえばいいでしょうか。もちろん僕はスペイン語は全く読めないので木村榮一先生の名訳によって楽しんだわけですが。

黒井千次による本作「紙の家」も、テイストは全く違うものながら、何か大きな事件が起こっているわけでもなくただ「彼」と呼ばれる男が、これまで出会ってきた人の名前を書きつけたリスト片手にぼんやり考え事をするだけの作品で、ナンセンスという意味では通底するところがあります。

作品内容と密接に結び付く文体の特徴として、茫洋さがあげられます。名前とその名前の横に記してあるワード(書きつけた時点ではその人物を思い出すための符丁として機能していたかもしれぬもののもはやそのことばが何を表しているのかすらわからない)を「彼」が目にしても、「誰だったか」「どんな人だったか」を全員が全員はっきりとは思い出せない。しかも「彼」は手帳のページをひたすら繰っているだけなのでアクションらしいアクションもありません。短編の目的地も明確にはされない。

 どれほど長い間自分がそのルーズリーフ形式のノートを使っているかをあらためて考えることはなかったが、ページの中にはペンで横線がしっかり引かれて抹消された一行もあり、反対に薄い鉛筆の字で欄外に遠慮がちに書き加えられている一行もあり、そこに収められている内容にはかなり流動的な気配のあるのが感じられる。(p.19)

内容というよりはそのメッセージ内容がほとんどないものを、そのメッセージがどういう状況で発信されているか(上の例でいえばリストアップされた人の名前の書かれ方)、メッセージの文脈にフォーカスして叙述が進みます。「彼」の想起する力も、パソコンがデータベース検索で探索ワードにバシっといきつくようなものではなく、いかにも思い出したくても思い出せない霞がかった曖昧さ、手探り感満載のもの。なので、読み手によっては「だからなんなんだ」といいたくなるかもしれません。

けれども、なんといえばいいか「だからなんなんだ」という問い自体がこの作品の前では無効になってしまうんですね。堂々と「なんでもないんだ」と言い返されているような気にさせられる、無意味の壁のまえにただ佇んでいるような感覚にさせられる。もちろんその意味のなさに堪えられない読み手はページを閉じて壁の前から早々に立ち去ることも禁じられてはいません。僕はこの意味のなさ、コルタサルに比べれば笑いやユーモアや風刺めいたものもないのだけれど、漠然とした「彼」の記憶の道行を、「彼」とともに一歩先も見えない、どこに向かっているとも分からない足取りで進んでいくのは苦痛ではありませんでした。漠然としたものを漠然としたまま読ませるというのはこれはこれで書き手の力量の賜物だとおもいます。上の引用部にしても「流動的」とか「気配」とかさらに「感じられる」ということばによって、茫洋さに拍車がかけられている。「抹消線」も引かれているし、書き込みは「薄い」字で「遠慮がち」というのも、とらえどころのなさを演出しています。

茫洋さを味わう別の例。

 ここでも、記されている相手が誰であったかを確かめるための注記というより、何かの理由で印象に残っている当人の名前を確認するための手がかりとなる注が括弧にくくられて示されているらしかった。したがってこれは、単に他人の姓名とか住所とか電話番号とかを記載して貯蔵し、必要に応じて引き出すためのノートではなく、過ぎた時の中を影の如く揺れて動いている人物の名前や住所を確認するためのノートと考えられた。(p.21)

デジタルな知識ではなく、アナログな記憶。それは上の、若干文学くささも感じられる修辞のことばでいえば「影」のようなものとして、人の頭の片隅や、指先の触感にそれと名指せないまま宿り続けるものかもしれません。

やがて彼の指が開いたのはいわば任意のページであり、自分がなぜそこをめくり当てたのかは彼自身にもわからない。他と違うところがなにかあるわけではなく、開かれた左右両面にそれぞれ十名ほどの名前がおとなしく並んでいる。そして気が付くと、なぜか注記のあるのは左ページのみであり、反対の右側にはただ名前と住所と電話番号が収められているだけだ。試みに上から辿ってみる右側の名前はどれもそれなりに記憶の針にかかるものばかりであり、二つの名前が鉛筆で薄く消されているのは、移った住所がわからなくなったか、それを追う気持ちを失ったかであろう。(p.23)

明確な目的意識なく指先の感覚に導かれて任意に開いたページの先で、記憶の定かでない人の名前と出会う。それは現在の「彼」がかすかに想起できるものもあれば、そうでないものもある。現在思い出せないだけでなく、過去のある地点においてすでに、その「名前」をもつ人にたどり着く道筋は失われている。

忙しい人は本作を読んでも腹が立つだけかもしれません(あるいは途中で読むのをやめてしまうか)、そしてどういう反応であろうと読者に禁じられている読みはありません。しかし、ビジネス書や自己啓発本ではなく、あえて小説を、それも貴重な余暇のいくぶんかの時間を割いて手に取っているのなら、別にお話らしいお話がなかろうと文字を読むことだけにつきあってみる、そういうぜいたくな時間を味わい尽くしたいものだと、僕は本作を読んであらためて思いました。

(追記)コルタサルのセーターの話は岩波文庫『遊戯の終わり』に「誰も悪くはない」というタイトルで収録されています。訳は木村榮一。どの短編も面白いので短編好きの方にはぜひご一読をおすすめします。

藤沢周「寿」

出典:『文學界』2014年3月号
評価:★★☆☆☆

いきおい名前の尻尾に「平(へい)」をつけたくなる藤沢周の、僕のなかでのベストはなんといっても「ブエノスアイレス午前零時」でそれ以外はどれも面白くなかったのでこれまであまり意識して読んでいませんでした。そして本作「寿」も、やっぱ面白くない。横浜の産業貿易センタービル二階にパスポートの切替申請にきた男が、証明写真に写った自分の顔に落胆し、そのまま中華街の人混みに歩いていくという話。文章は意図的に読みにくくしているのかささっと読める書き方ではないものの、これも僕には「超遅れてきた新感覚派」とでもいおうか、今更感がありました。語り手(書き手)はオシャレしているつもりなんだろうけれど、それ一昨年の冬のコレクションの服ですよとそっと耳打ちしたくなる二周遅れの文体。一般人の僕は平気で二年前の服を着ますけどプロの作家がこういうの書いてもなあと思うのです。うーん、僕が読めてないだけなんでしょうか(3回読み返しました)。

繁華街特有の人で混雑する雰囲気をこの文体でやってみたのかもしれないですね。ごったがえす歩行者天国に入っていくと自分の意志で歩くというより、周りの人の流れに乗って歩かされるあの感じ。文章の読みを歩行にたとえるなら、先に進みたいのに引っかかって引っかかって進めない、読みの歩みを遅延させる文章です。だけど面白くない(笑)。

 天津甘栗を焼く黒い小石の波が執拗にうねっているかと思うと、小さく薄い器に入れられた烏龍茶が盆にいくつものって、観光客の肘やダウンジャケットに触れて零れている。中華肉まんの奔放なほどの甘い湯気がこちらの顔を乱暴に撫で、チープな金と赤の提灯が乱れ揺れる。(p.151)

三国志新館、重慶茶樓、重慶飯店、華正樓……。ラードとニンニクのにおいがあふれ、大振りのシューマイ用の蒸籠が大笑いして湯気を吐く。(p.151)


中華街を歩くこの男はひたすら自分の周りを描写していきます。看板、露天、店の前の人たち、音、におい。様々なものがごった返しているのは分かるのだけど、適度にリーダブルなので、言葉をいろいろいじっているにしても物足りなさが残りました。かといってほとんどの人が読めないようなダダ詩みたいな仕方で中華街の描写をしてしまうとそれはそれで読者は文句言いそうだし(「もっとわかりやすくかけ!」)、バランスのとり方が難しいですね。さらにいえば書き手の側だけでなく読み手の読書量とか好みにもかなり左右されるところであるはずで、となればこの作品に描かれた中華街の混雑具合と相性ピッタリの、「情景がありありと目裏に浮かぶようだ!」といって楽しみながら読み進める人もいるはずです、とフォローしておきます。僕にはつまらんかった。

つまらなさの一因として、目に見えたものをそのまま並列して書くだけの個所がちょこちょこ出てきたこともあります。

大新園、三和楼、聚英、清風楼……。(p.152)

白い矩形の看板灯が並ぶ。縦だったり、横だったりして、高砂荘、暁荘、六国荘、桜会館……。(p.155)

大吉、琴、初音、スナックてっぺん、めぐみ、福娘、味自慢。日本酒の広告入り看板もある。(p.155)

本作を片手に横浜中華街を歩いていけば、書かれてある順に店の看板が目につくのかもしれません。一度も横浜中華街に行ったこともなくいく予定もない僕にとって、この羅列は単なる文字でしかなく、何のイメージも、感情も喚起させません。中華街大好きな人くらいじゃないかなあ、このくだり楽しいの。それにどうせ中華街を歩くにしても、無味乾燥な「寿」よりは、観光案内本を持っていったほうが何十倍も楽しいはずですし。いったい何がしたかったんでしょうね、とにかく僕は読めませんでした(笑)。

男は最後に大衆居酒屋に入り酒と肴をやりはじめます。本作で唯一よかったのは、男が温やっこを食べる場面。

電子レンジでチンして、かつおぶしだけのせた温やっこ。だが、七味唐辛子を振って、備え付けのプラスチックの箸で一口やったら、熱いッ、と思っているうちに喉を焼くように滑って、すきっ腹に沁みるような美味さだった。(p.156)

ここを読んだ僕の喉は、辛さと熱さと、温やっこのとろとろした感じを味わい、僕の胃にも熱い塊が落ちましたもん。けれどその次の熱燗を飲む場面になると週刊誌のグルメ評じみていて、温やっこのリアルさはすぐに吹き飛んでしまいました。

安酒には違いないが、熱燗も思った以上に親しみやすい味だった。カツンと尖って辛いのに、鼻に抜けると丸い甘味が漂って気持ちをなだめる。(p.156)

「外はカリカリなのに中はふわふわ」と同等のクリシェ感。残念でした。

結局、ちょっと変わった文体を除くと男が中華街を歩くだけの話、といって文体も別にたいしたことはない半端な作品でした。ここで、辺見庸の「アプザイレン」を読んだときに書いた「やっぱり芥川賞作家は偉大だなあ」は訂正されねばなりません。芥川賞作家とはいえさまざまだ!

辺見庸「アプザイレン」

出典:『文學界』2014年3月号
評価:★★★★☆

石原対談もさることながら『文學界』3月号は執筆陣も豪華で、今月の文芸誌のうちからどれか一冊だけ買うとすれば本誌じゃないでしょうか。歴代芥川賞の受賞者たち(抜けている人もいます)が短編競作かエッセイを寄稿しており目次を眺めるだけで壮観。ひと月で全部読みきってしまうにはもったいないほど内容、量ともに充実の、少しづつ堪能したい保存版もしくは転売用の一冊に仕上がっています。

そんな中から、辺見庸の「アプザイレン」。星4つとしたけれど、5つでもいいかもしれない(あとで変更するかもしれません)。迷いました。アプザイレンとはロープと下降器をつかって岩場など高い場所から下降する技術で、原語はドイツ語のアプザイレン(Abseilen)、日本語訳では懸垂下降というのだそうです。SWATのような特殊火器で武装した戦術部隊がビルの屋上からロープで下降し、悪者たちの秘密会議室へ窓ガラス蹴破り突入するときの、あの滑降をイメージすれば、アプザイレンということばに全く馴染みない人でも、容易に「ああ、あれね」と想像つくと思います。もっとも本作は山の話でもなければ警察アクションでもなく、よくわからないところから語りおこされます。

 かれはふかい水のなかにいる心地がした。そうおもいたかっただけなのかもしれないが。からだがおもい。空気もすっきりと透明ではなく、かすみがかったようになっているのはなぜなのだろう。光の屈折率がちがうのか、ここは明るいのに、そこはかとなく昏い。それに、あるべき影がどうも見えない。ひとりびとりが、おどろくべきことには……といっても、ここではおどろくべきことなんかなにもないのだが……それぞれの影をひきずっていない。ひとじしんが影と化したようなのだ。うすく漉した餡の色の影に。ひとりびとりの本体が、すでに影にのまれたからだろうか。どうりで影は影をひきずっていない。いつからか難聴になったようだ。音が遠い。(p.88)

一文目で「かれ」と呼ばれている存在の意識に、知らぬ間に語りが同調して、第二文、第三文目までにはすっかり一人称の語りに意識が浸透してしまいます。計算なくこんなことやられると技術未熟で一蹴されるはずですが、この、漢字をひらいてひらがなで綴られているビジュアルには、混沌のただなかに居るような、意識のはっきりしない「昏さ」あるいは「蒙さ」が胚胎しており、まだしばらく先が知りたい気にさせられます。意識が流動しているどころか人と影との境界も曖昧になって同化してさえいる。聴覚も聞こえているのか聞こえていないのかわからない、といってもちろん佐村河内氏など一切関係なく、人の意識や間隔が周囲に浸透、溶解していくような語りがまだしばらく続きます。昏い意識の底に流れ沈みこむようなことばに僕は松浦寿輝『吃水都市』を思いだしました。

以降も続くこの意識のはっきりしなさの裏には、ひとつに視覚(描写)の抑制=他の感覚(描写)の促進があります(とりわけ聴覚)。加えて、誰だかわからない語り手の記憶も前後します。そして過去を想起するなかでも唄の文句が出てくる。

あたまのなかをだな、唄でいっぱいにするんだよ。ほかのことをぜんぶしめだすのさ。くりかえしてうたっているとだな、終わってるんだ。CMソングなんか意外といい。どんなCMソングですか? あほ、じぶんでさがせ。せんぱい、おねがいです、ヒントだけでも。ふーむ、たとえばだな、カムカム・チンカム・チムカントム……。なんすか、それ? ミカン・チンカム・タケノカム・コメノモタセニャ・パタラケヌ……ってだな、五番まであたまのなかでうたう。すなおにな、なんでもおもいついたのを、すなおに、いっしょうけんめいうたうのさ。そのうちにな、みんな終わってる。(p.89)

時間を過去に飛ばしてさらにそのなかで先輩がわけのわからない唱歌の文句をリフレインする。読み手の意識も、ミニマルミュージックかお経でも聞いているように酩酊してきます。そして先輩がいうように唄をあたまのなかで歌っているうちに「何か」が終わっているのだと助言されている。しかし「何か」は語り手と先輩との間で了解されているだけで読み手には明かされません。

かれはおもった。「上」と「下」について。というか、上から落ちていくのと、下に落ちてくる、そのちがいについて。じつは、もうなんどか、くりかえし、かんがえはしたのである。〈落ちる身〉になっておもったのではない。そんな余裕など、すこしだけしか、いや、ほとんど、あるいはまったくなかった。それでよいのだ。じょうだんではない。〈落ちる身〉になってはいけない。ここの、それがぜったいのきまりだ。かれはもっぱら〈落ちる者を見る身〉になって、落下ということを、下からイメージしたのであった。(p.91、強調部は原文傍点)

「かれ」は上から何かが落ちてくるのを見る者であるようです。そして「ここ」では〈落ちる身〉にならないよう戒められてもいる。ここからまた、「かれ」の学生時代、ワンゲル部で経験した懸垂下降の体験が想起され、やがてまた「ここ」へと意識が戻ってくると、自分の身体器官が発生させるかすかな音までが感じられるようになります。ここでも極度に聴覚が敏感になっている。

このあたりから読み手もなんとなく感づいてきます。大臣がこの「落体」を視察しにやってきたときのエピソードが語られ、「落体」を執行した人々は大臣にたいして「まことに厳粛でした」「粛々ととりおこなわれました」とコメントする(p.95)というあたりでやっと、この作品で語られているのは絞首刑執行の状況、そして「かれ」とはその執行のボタンを押す刑吏のひとりなのだと知れます。

冒頭から視覚描写が抑え気味であったのも、「かれ」が見たくない情景が繰り広げられているからです。それに代わって耳は、重要な公務中であるため耳栓などするわけにもいかず、いやがおうにも音の侵入を許してしまう。これまでの語りは、目をそらそすと視覚のぶんの欠落を補うように聴覚が敏くなってしまうことの表現だったわけですね。自分の舌や腸が発生させるかすかな音まで聴取してしまう。自らの体内に耳を澄ますことはやがて自らの過去の体験へと横滑り、それでも結局、絞首刑を連想させるような、職場の先輩との会話や、学生時代の懸垂下降のエピソードが蘇ってきてしまう。読み手がこのことに気づいたところで、これまでのなにげなく語られていた細部を読み返してみれば、

ゆりかごのうえでゆれるビワの実(p.91)

ネクタイのむすびをいつものプレーンノットからダブルノットにかえて、きつく絞め(p.94)

物体の自由落下運動は、鉛直方向の下むき一定の重力加速度gで加速される、などと、お立ち台に立つだれがおもい、だれがそのような「落体の法則」をおのれの目でかくにんしようとするであろうか。(pp.94-5)

など、どれも絞首刑と響きあうものばかりで埋め尽くされていたことがあらためて了解されます。ビワの実は人体の頭部に変じ、ネクタイの結び目は受刑者の首に食い込み、「落下の法則」ではなく「落体の法則」とわざわざ表記される。これ以降最後にいたるまで、さらに絞首刑がさまざまな「落下」や「懸垂」にかかわることばやイメージと響きあって、読み手のイマジネーションを刺激してやみません。「落下」や「落体」も、この語りが続いている刑場から(読者の頭のなかで)しだいに遊離し、罪を犯して身を落とすことへもつながっていく。作品の最後の最後、刑が執行されこもりうたのなかで永遠の眠り=死が到来するまで、一句たりともゆるがせにできない散文詩、あるいは極上の短編小説でした。短編でこんな作品が書けるのだからやっぱり芥川賞作家は偉大だなあ。

石原慎太郎×中森明夫「芥川賞と私のパラドクシカルな関係」

出典:『文學界』2014年3月号
評価:★★★☆☆

このブログでは小説しか扱ってこなかったんですが今回芥川賞・直木賞がともに第150回を迎えておめでたいということで例外的に対談をとりあげます。文芸誌の対談といっても、数十年前みたいに対談者たちが一触即発になったり、互いの立場をかたくなに譲らず侃侃諤々になったりするおもしろ対談は今やほとんど見かけません。変わって目に付く対談といえば、連載終了で新刊本を出した著者同士が気持ち悪い褒め合いをするとか、あるいは新たに受賞した書き手の人物紹介&オメデトウ対談みたいなものだったりで、ほとんど読むべき内容と価値がありません。そんななかで販促活動とは関係ない対談がこうして掲載されれば面白くなるに違いない。もっとも、中森×石原対談に僕が付け加えるところは特になく(対談そのものが十分面白い)、興味のある方はご覧になってみてくださいという紹介の意味合いで以下、取り上げるわけですが。

各所で語られているように芥川賞はもとから世間一般の耳目を集めるような賞ではなくて、石原慎太郎「太陽の季節」の受賞を境目にマスコミに注目されるような賞となった歴史があります。また石原慎太郎自身が長きにわたり芥川賞の選考委員(ちなみに銓衡の字をやめたのはいつごろからでしょうか、2014年3月号『文學界』紙面でも「選考」になってるのでこれは文藝春秋公認の表記なんでしょうね)を務めていたこともあってその周辺のこぼれ話が満載。もっとも芥川賞ウォッチャーのような人や文学史に詳しい人にとっては当たり前の話ばかりなのかもしれません。とはいえ文学賞にほぼ興味のない、かつ半可通の僕にとってはわりに面白い対談でした。

以下、面白かったところ、なるほどなあと感心したところを抜書きしておきます。

石原 (前略──引用者)ただ、僕がしみじみ思うのはね、日本の社会ってのは、著名な政治家がいい小説を書くことを許さないね。そういう点で非常に不寛容というか、料簡の狭い社会だと思いますね。僕は本名で政治家をやってるし、小説を書くときにペンネームで出るつもりもなかった。けれど、ある時非常に密度の濃い作品集を出したんだが、たまたま金丸問題があって、同じ自民党ということでまったく一顧も与えられなかった。一行も書評が出なかったな。世の中ってこういうものだなと思ったね。(pp.408-9)

たしかに作家でかつ政治家という人は石原慎太郎くらいしかぱっと思いつきません。新書類なら幹事長、大臣クラス以上の経験者の名前で出ているものがあるにせよ、それらはゴーストライターが代筆してるんでしょうしね。ただ石原慎太郎のいうように日本の社会が不寛容だから政治家は小説を書かないというよりは、政治家になりたがる、かつなれるポジションにいる人はそもそも小説を書こうなんて思わない気がします(笑)。小説を書く政治家が出てくれば出版不況も少しは……いや、あんまかわらないか。

中森 石原さんは芥川賞を取って有名になったと思われていますが、それまではすごく地味な賞だったそうですね。
石原 それはとても面白い関係で、パラドクシカルなものでね。つまり、それまで文学、小説ってのは、非社会的な人間の手立てでしかなかった。象徴的なのは『人間失格』の太宰治で、物書きはそういう偏見で見られていたと思うんです。芥川賞ってのにどれだけの権威があったのか知らないけど、とにかく「太陽の季節」が取ったってことで、小説そのものが社会的にクオリファイされたんですね。不遜な言い方をすると、俺のおかげで芥川賞は有名になったんだ(笑)。(p.410)

パラドクシカル(笑)。クオリファイ(笑)。

石原 (前略──引用者)青春のピュリティだけが浮き上がってきたんだな。(p.410)

ピュリティ(笑)。いや、英語にいちいち反応しているときりがないのですが、面白いものは面白い。対談のタイトルに「パラドクシカル」の一節を引いているように編集部もたぶん慎太郎いじりしたくてしょうがないのだろうと推測します。にしても石原慎太郎の話の中にちょいちょい英語が混じってくるのは何なんでしょうね。旧制高校生へのリスペクトがあるならドイツ語になるんだろうけれどそれともまた違う感じ。

また、三島由紀夫について。

石原 最後のほうはちょっとあの人おかしかったけど、最初の対談は、出来が悪いゼミナリステンに教授が付き合ってくれているようなものでした。こっちのほうは、なんかちょっと忌々しいぐらい幼稚なんだ。
 ただ、三島さんが、一九六〇年に筑摩書房から出た僕の選集に書いてくれた評論は、すごくいいんです。そこで三島さんは、石原が初めて知的なものに対する侮蔑の時代をひらいた、と言っているの。戦前はその知的なるものを侮蔑したのは軍人だったけれども、初めて作家が既存の文壇にその侮蔑を突きつけ、文学に知性の内乱が起こった、と。あの人は僕が政治家になるのを、その時すでに予感していたんじゃないかなって気がするんです。このまえ、久しぶりにあれを自分の書庫で読み返したら、なんかとても懐かしくて、嬉しくて、涙が出たな。この人、本当に俺のことわかってくれていたんだなあと思えて。(p.412)

三島の解釈も分かりやすいといえばわかりやすい、分かりやすすぎるのでもうちょっとうがった見方をしてみると、石原慎太郎が侮蔑を示したのは「知的なもの」そのものではなくて、「知的なものに対する憧れ」ではなかったか。

芥川賞選考会について。

中森 侃々諤々やるんですか、選考会は。
石原 やりますね。まあ、飯食って、酒飲みながらやるんだけどもね。僕は、候補者たちに陪席させて、俺たちの議論を聞かせたらどうだって言ったことがあるけど、そうはいかないっていうんですよ。そのほうが彼らのためになると思うけどね。(p.414)

いやー、これをぜひ実現したあと退任していただきたかった。「そうはいかない」と反対した小心者は誰でしょうか。もしニコニコ生放送で実況中継されるならブラウザの覗き窓から俗物根性に輝く眼で窃視したいもんですが、そうなんでもかんでも公開してしまうと失われてしまうものもあるはずなので、間をとってせめて候補者さんたちの陪席は実現してほしかったよ、慎太郎!

皇室について。

石原 いや、皇室にはあまり興味ないね。僕、国歌歌わないもん。国歌を歌うときはね、僕は自分の文句で歌うんです。「わがひのもとは」って歌うの。みんなちょっと、振り返るんだけどね。(p.417)

ネトウヨ発狂wwwww、はしないとしてもこれは意外でした。橋本大阪市長とは意見一致してなさげな感じですね。まあ大阪のことには興味ないのでどうでもいいですが。僕の中の週刊誌的な興味が刺激された発言でした。

墓碑銘について。

中森 僕は解説に、「石原愼太郎の墓碑銘」というタイトルをつけました。村上春樹さんは、自分の墓碑銘は「ランナー」にしてほしいと書かれています。「作家(そしてランナー)/少なくとも最後まで歩かなかった」って。石原さんなら、何と書かれますか。
石原 「ユリシーズ」。
中森 わあ、かっこいいですね。ところで、村上春樹なんて読まれますか。(p.419)

このくだりが僕にとって一番印象深いやりとりです。村上春樹の、もう村上春樹的としか言えない墓碑銘の紹介の後、石原慎太郎が自らの墓碑銘にこともあろうに「ユリシーズ」と言い放ち、それを受けて中森明夫は「わあ、かっこいいですね(棒)。ところで、」と速攻で話題を転換するという(笑)。ぜんぜんかっこいいっておもってないだろ、中森明夫(笑)!

僕にとって面白かったところ、感心したところを抜き出してきましたがもちろんこれはごく一部です。100人読めば100通りに石原慎太郎と芥川賞の歴史が読み取れることだと思います。人間、石原慎太郎、81歳。やんちゃなオデュッセウスとして、湘南の海をスタートし創作活動と政治活動で日本列島全体どころか、その端っこの尖閣諸島までを巻き込んで最後は再び湘南の海に帰還する……かどうかは知りませんがとにかく、生涯かけて壮大な冒険叙事詩をみごと完結させてほしいと思います。

(追記)政治家かつ小説家として、野坂昭如先生がいたじゃないですか!!!
プロフィール

読む人

Author:読む人
小説の感想を、自分基準で。コメントはご自由にどうぞ。

★☆☆☆☆(面白くない)
~★★★★★(面白い)で評価。

最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
カウンター
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。