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エトガル・ケレット/母袋夏生訳「創作」

出典:『新潮』2014年3月号
評価:★★★☆☆

エトガル・ケレットは本作と併載されている訳者解説によれば、1967年テルアビブ生まれの超短編作家で、小説のほかに絵本、映像、コミック原作も手掛けている方だそうです。

大御所のアモス・オズやD・グロスマン、ホロコースト作家のアッペルフェルドは別格として、いまいちばん、世界で売れっ子のイスラエル作家である。(p.114)

とのこと。いろいろ例外を設けたうえで無理くり「いちばん」売れっ子の座に座らされた感のある紹介文(笑)。最近ユダヤ人作家や旧約聖書に関心を持ちはじめていたところだったので僕個人にとってタイムリーな作品ではありました。個人的な事情を抜きにしても本作の掲載はタイムリーというか、半ば宣伝を兼ねてというところもあるんでしょうけれど、エトガル・ケレットは東京国際文芸フェスティバル2014のゲストとしても出演予定の作家さんでもあります。リンクは以下。

【東京国際文芸フェスティバル】

2月28日からはじまるフェスには、エトガル・ケレットのほかにも、ジュノ・ディアスや西加奈子といった話題の作家も来る予定のようですね。詳細はサイトか直接事務局にお問い合わせを。

さて、本作はこんな風に

 マヤが書いた最初の物語は、人間が増殖を分裂でおこなう世界の話だった。そこでは、だれでも好きなときに分裂できて、元の年齢の半分になる。(p.108)

と不思議な世界の窓が開きます。といってもこの、人間が分裂増殖する世界の話がこれから語られる作品世界の中心になるのではなくって、ちゃんと「マヤが書いた最初の物語は」と導入部にあるように、この話は、「創作」という超短編のなかに挿入された作中作として紹介されているんですね。読者は作中作の嵌め込み窓から外に広がる非リアリズムの世界を覗き込むにとどめおかれます。

ちなみに何の説明もなく超短編、超短編いっていますがこれはエトガル・ケレットが使っていることばから忠実に訳したことばなんでしょうか、訳者解説にも

作品の短さに言及したインタビューでは、「超短編は詩に似た翻訳困難さを秘めている。ことば一つ、言いまわし一つがいろんな意味を持ったり、複雑に絡み合ったり、矛盾し合うこともある」と語っている。(p.114)

とあります。短編より短い作品は僕たちの手持ちのことばだと、掌編、あるいはショートショートといったりしていますがそれともまた違うニュアンスを出したいのかもしれません。ショートショートというと星新一のような、きれいな構造を持った物語が平易なことばで綴られてストンと落ちがつく小説を想定してしまいますが、超短編と自称する本作「創作」は、そういう一つの、いかにもまとまりのいい作品というよりは、分量的にはたしかに短いのだけれどそこから作品外にはみ出ようとする余韻のある作品となっています。この辺のところをさして「詩に似た」といっているのかもしれませんね。

短い分量ながら、作品の中には冒頭で紹介した作中作含めて、計四作の作中作がはめこまれています。二人の夫婦、マヤとアヴィアドがそれぞれ創作教室で書いた小説の断片が、二人の夫婦関係を暗示するつくりになっています。もっとも作中作の内容が二人の関係をそのままのかたちで反映しているかどうかは曖昧にされてはいますが。

妻のマヤは創作教室の上級クラスで作品を3つかき上げ、編集者にも紹介されるほどの評価を得ています(この編集者への紹介というのも、マヤの作品そのものの評価なのか、それとも講師の男性とマヤとの間になにか取引があってそうなったのかはぼかされています)。彼女の書いた作品は冒頭の人が分裂する話のほかに、愛している者の姿しか見えない世界の話、猫を産み落とした妊婦の話、など。読みもののアイディアとして成立してそうですが、どことなくマヤの身辺雑記を単に物語に変換したようで、安直さがあるなあと僕は思いました。だからこそ、編集者への紹介も、作品内容以外の事情があったのではと勘繰ってしまったわけです。

作品の出来でいえばむしろ、それまで小説じみたものなど書いたことなかった夫のアヴィアドが自動筆記で書いた、魔女によって人間にかえられた魚がビジネスで成功する話、のほうがよほど魅力的に思えました。

そして、ずいぶん年老いたある日、不動産ビジネスで上手に手に入れた、海沿いに建つ巨大なビル群の窓の一つから海をちらと見た。海を見て、不意に、自分が魚だったことを思い出した。世界の株式市場を動かす子会社をいくつも持つ資産家、だが、未だなお魚だった。塩辛い海の味を、何年も味わっていない魚。(p.110)

ビジネスで成功している魚、異界からやってきた存在(たいてい水の関係ある世界です)が現世で巨万の富を築きまた元の世界へと帰っていく、民話的な根っこを持っている話であると同時に、たとえば現代の作品でもラファティの「浜辺にて」なんかに通じる現代性を併せ持つ作品だと思えました。

分量的にはすぐ読めちゃいますが、読後、どうやっても全体像が完成しないパズルをああでもないこうでもないと組み合わせようと試行錯誤する楽しみを余韻としてのこしてくれる、膨らみのある超短編作品でした。

(追記)英語圏でいうFlash Fictionに相当する用語として、ここでは超短編ということばが使われているんですね。「創作」の原文はヘブライ語だそうなので、ヘブライ語ではまた別な言い方がなされているのかもしれません。僕らのサブカル大辞典ことウィキペディアにも【Flash Fiction】の項目立てはありますが用語としては掌編小説はじめ他の様々な呼び名とも重複していてどれくらい定着しているのかよく分かりません。見開きページに収まるお話がFlash Fictionに相当するようで、これは商業媒体や企業パンフレット、広告なんかにうってつけの形式に思えます。お金の集まる場所で隆盛する小説形式だ、と言い切ってしまうと極端でしょうか。

(追記)ケレットがワルシャワにオープンした細長い家を取材した動画があったのでご紹介。ご本人も登場して自分のルーツにも少し触れています。旧ユダヤ人ゲットーのあった場所にオープンしたことからもわかるようにユダヤ性を意識している作家なのですね。【世界で最も細い家? ワルシャワに登場】(注意:音が出ます!)

(追記)ケレット原作のショートフィルム。公開は2013年サンダンスフィルムフェスティバルの場で。シャレオツ!…な雰囲気はあるけれどコマーシャルフィルムかポップミュージックのPVじみていて映像作品としてはとりたてて何も感じませんでした(笑)。【WHAT DO WE HAVE IN OUR POCKETS?】(注意:音が出ます!)

内村薫風「パレード」

出典:『新潮』2014年3月号
評価:★★☆☆☆

『新潮』3月号は人造人間エヴァンゲリオンの初号機みたいな配色。それにあわせてというわけではないでしょうが、本作は、使徒…ならぬ国籍不明の兵士が日本に侵入して人を殺しまくるというヴァイオレンス作品です。純文学雑誌掲載作ならではの特徴といえばいいのか、さまざまな人物が死の直前に見聞したものをすべて「私」の視点から語っているというしかけがあります。「私」が殺され、その次にまた「私」が生きた人物としてしれっと出てくる。そこで読み手ははじめ若干の戸惑いを覚えるものの、「私」が死ぬたびに新たに登場する「私」は別人(あるいは別の意識を持った主体)なのだ、とからくりを理解してしまえば特に引っかかりを覚えるようなものではありません。

 故障ではなかった。テレビのチャンネルを変えたのは、二十三時になる少し前だ。広島カープの延長戦の結果を知るために、プロ野球ニュースを眺めていたところ、画面上部にニュース速報が表示された。解説者のコメントを耳で受け止めながら、私はスマートフォンに届いたばかりのメール、浮気相手の樹里が書いた、
──わたしの誕生日は一緒に過ごせる?
 の鬱陶しい念押しを読んでいたため、文字スーパーに視線を戻した時には文末の、
──警告を無視し、領土に侵入した。
 の文字を捕えるのがやっとだった。(p.88)

と、作品の入り口で読者も非常事態に突入したことが知らされます。その後、この浮気をしている男性の自宅に謎の兵士が侵入し、男性は射殺されます。

 その三時間後の県庁、一階エントランスに、私はいない。自宅に入り込んできた、迷彩服の兵士三人に自動小銃を連射され、その場で死亡したからだ。県庁のエントランスにいるのは、公立高校サッカー部に所属する高二の、私だ。(p.89)

最初の躓きの石があるとすればここですね。「私はいない」のところで、あれ?と思って、これは射殺された「私」が死後、その生前をふり返って語っているのかととりあえず納得する。そしてその次に「公立高校サッカー部に所属する高二の、「私」が出てきて、読み手は混乱します。

高二のときの私も、県庁で射殺される。(p.90)

ここにきて了解できるのは、「私」というのはそれぞれ別の人物(あるいは意識)なんだということ。高二のときに射殺されてしまった「私」がその後妻をめとって浮気するなんて時間の順序としておかしいですもんね。そしてこの仕掛けをひとたび納得してしまうと作品はとたんに退屈になります。この、「私」という同じ呼び名の器にさまざまな人(あるいは意識)を注ぎ込む方法をひたすらこなしていくことだけがこの作品の課題になったかのようで、話は進展していきません。同じところをぐるぐる回り続けて実に退屈です。

イデオロギー的に偏向したおもしろ資料は論外にしろ、実際の戦争体験の手記や記録映像はいまやいたるところでふれることができます。戦争を直接は経験せずとも、それらを見れば一発で「戦争は怖い」「殺されるのはいやだ」という感慨がわく。ヴァーチャルな体験ではあっても、皮膚が焼けただれてケロイドになっている人間、医者や看護婦が足りずに蠅のたかるまま放置される傷むき出しの少年少女の写真や映像からは思わず目をそむけてしまうものがあります。資料のある限り以下無限ループ。本作「パレード」の退屈さとは対極の、読み手の芯にがつんと響いてくる痛みが、実際の資料にはあります。

 タックルした二人の男は、見るからに堅気の男ではない。
(中略──引用者)
 戦争反対を叫ぶ、青白い男を殴りつけ、気絶させた上で服を脱がし、憲法九条改正を訴える青白い男をサンドバッグ代わりにした。人種差別のヘイトスピーチを行う集団に割って入り、片端から殴りつけ、それを動画に撮る通行人を殴りつけ、アフリカの子供たちにワクチンをあげようと寄付を集める者も殴りつけ、そこで転がった寄付金を拾う通行人を殴りつけた。拳の皮は破れては固まった。(p.99) 

ギャグで書いているならいいんです、この件に代表されるなんの痛みもない暴力場面もすんなりと納得できます。けれどギャグではない証拠に全く面白くない。痛くも痒くもない。読み手は殴られる側の痛みを全く感じることなくただ文字として「殴られた」のオンパレードを目にし、かといって殴る側の拳の皮が「破れては固まった」といわれてはいるけれどそれが何百回何千回繰り返されようと寸毫の痛痒を感じることもない。書かれてあるだけの退屈なト書きが、別々の「私」の死を終点にリピート再生される。単なる文字として「死」「殺」を目にするだけでなんも面白くありません。

一篇の小説としてなにか方法的に試してみたいことがあったのかもしれませんが人称を「私」に統一して語る手法自体さして目新しくもないし、といってそこで反復される死は全然読み手(少なくとも僕)には迫ってくるものはない。方法だけが突出した作品は安っぽいどころか、人の死を、こんなふうにテレビで放映してもまったく問題ないような無害化された日曜洋画劇場みたいなやり方で書いてしまえる鈍感さに、僕は呆れすら覚えました。全国のシネコンで上映される、そのくせ翌日にはほとんど誰の記憶にも残らないアクション映画の脚本でも書けばきっと需要あると思いますよ。

中上紀「赤いサリー」

出典:『すばる』2014年3月号
評価:★★☆☆☆

国際結婚もの、と本作をひとことでまとめてしまうのは僕の語彙貧困と読み取り能力のなさを証しているとしても、それ以上の感想をこの作品に抱けなかったことは事実です。ネパール人男性と結婚した日本人女性が子供をもうけて日本で暮らすなか、子育てや家のことに非協力的な夫に不満たらふく。その一方義弟(ネパール人)にむしろ恋愛感情のようなものを抱きネパールの地で、日本での鬱々とした日常から解き放たれて一人の女に戻る瞬間を味わうというようなお話です。夫に不満を抱いている女性が読むと「そうそうこれこれ!」って我が意を得たりの共感を味わえる作品なんでしょうか。僕には別に意外性もなにもなく「まあ語り手がそういうんだからこんなもんだろうな」くらいにしか感じませんでした。

語り手の女性がネパール文化や当地のひとたちと接して味わう感情には、ネパールトリビアを知る楽しみはありました。読み手の僕としては、情報番組で外国の人の暮らしに「へえー」と感心するような感じです。別に小説として読まなくてもいいような情報。

 ネパールでは祝い事の際に縁起の良い金の装飾品を身に着けると聞いていたので、日本から十八金の繊細な鎖のハートのペンダントを持参していた。しかしそれは赤のサリーには合わないとあっさり却下された。代わりにバウズーが戸棚の引き出しから出してきたのは、毒々しいほどの黄金色に輝く太いチェーンのダイヤネックレスと、同じく毒々しい黄金色を土台にしたダイアピアスのセットだった。あまりの派手さに面喰っていると、金も宝石も偽物だから遠慮するなと言う。(p.71)

ふーん(笑)。ほかにもネパールの政情の不安定さなんかも紹介されておりこれもお昼の情報番組的なものにとどまっていて特に好奇心を刺激されるものでもありません。大使館情報とウィキペディアと当地を旅行した人のブログを見れば事足りるようなものであって、別に小説じゃなくてもかまいません。

本作のタイトルにある「赤いサリー」というのはサリーという女性名のことではなくて、民族衣装のあの布のことです。義弟の結婚式に列席するときに女性衆が身に着ける布の色は赤と決まっているとのこと。子育てやつれして気ぶっせいな日本の日常を灰色とするなら、つかの間ネパールに行って親族のハレの日を象徴するのがこの赤です。語り手の女性が赤いサリーを身に纏った自分の姿を後日、映像で見てみると、

 一瞬、誰だか判別できなかった。化粧をした女がそこには居た。ネパールの正装をし、結婚式のための装飾が施された玄関に立っている。紛れもない自分であるが、同時に知らない女であった。女は愁いを帯びた遠い目をし、その日の主役がまるで自分であるかのように赤いサリーを纏っている。(p.65)

上の部分を書き写しながら改めて気づいたんですが、語り手は、子育ての苦役にたえる自分が日常生活から疎外されている=脇役であると感じているんですね。だからサリーを纏った自分の姿のなかに充実を、ひとりの主役として別人になった存在を見いだしている。語り手にとって主役になるということは、夫の所有物になってこき使われる妻あるいは母としての存在とは真逆の、一人の「女」になること、性的に特定の男性には結びつけられていない状態の、何かをその先に選び取れる可能性に開かれた一個の女性となることに他なりません。これも、まああるあるなんだよなあ。

ネパールの美容室で髪を整えてもらっているときはこんな感じ。

それでも、美容室へ行って良かったと、思う。なぜなら、髪を洗ってもらっている時、誰のことも、何事も考えず、しみついた汚れや、傷ついた外側の部分をこそぎ落として、まっさらな存在になりたい、それだけを思うことができた。(p.90)

リゾート地のエステでリフレッシュ!というのと同じです。日本で夫との仲が悪いまま夫婦生活をしている人にとって、美容室で何も考えないで綺麗になれることが快につながるのはよく分かるものの、これも当たり前のあるあるですよね。

作品のクライマックスでは、国籍や言葉に関係なく披露宴の場でサリーの赤はじめ様々の色がまじりあう祝祭的なシーンが描かれます。これも教科書通りすぎます。宴の場というのはそういう場だろう、日常の規範が緩んで、集った人々がみんなでわっと盛り上がって親族や共同体の絆を確認しあう場、そしてさまざまの社会圏が交錯する場だろう、と。あたりまえのことを当たり前に書いていて何が面白いのか僕には理解不能でした。

こんないかにも作り物つくりものしたクライマックスよりも、この作品中唯一僕がいいなあと思えたのは次の場面。夫のネパールの実家(義理の兄弟夫婦もくらしている)に滞在している語り手が、夜更けになって帰宅する場面です。

家に帰ると家族のほとんどは就寝していた。寝室に行く前、マスター・ベッドルームのほうにちらと目をやる。固く閉じられたドアの向こうから、押し殺した男女の声が漏れ聞こえてこないかと耳を澄ませた。(p.91)

このくだりにだけ、僕は「リアル!!」とびっくりマークふたつ付きの書き込みをしています。他はどれもありきたりすぎて退屈な作品でした。

中原文夫「安川さんの教室」

出典:『すばる』2014年2月号
評価:★★★☆☆

書き手のことを全く知らなかったので『すばる』同号の著者一覧をみてみると、1949年生とあります。おじいさ……と口をすべらすと人によっては怒られそうなので年配の方、といいかえておきますが文芸誌に掲載される作家でいえば年齢が上なのは確か。Wikipedia情報だと、文藝春秋に勤務していた経験もあり現在は早稲田の非常勤講師という経歴の書き手です。そして本作を読むと確かにこれくらいの年にならないと書けないような、おじいさ……年配の方の生活がかもすリアリティがあって、読み手も若い人よりは、書き手に年齢が近い人のほうがよりいっそう本作を楽しめるのではないかと思いました。のっけからドッキリさせられます。

 私が安川さんの異変に気づいたのは、昼過ぎに自宅のはす向かいにある彼女の家に行き、小さな門の前に立った時だった。記名欄に「中西」と自署した回覧板を小脇にはさんでインターホンを押したが応答はなく、その時、門扉の柵を通して仰向けに横たわる安川さんのスカートが見えたのだ。(p.154)

近所に住む安川さんという初老の女性が倒れていたのを、「私」が玄関先にて発見するシーンです。僕なんかはまだ自分事としては心配してないのだけれど、「私」や安川さんに年齢の近い方が読むと、いつ自分が安川さんと同じ目にあうかわからないスリルがあるんじゃないでしょうか。という僕も別住まいの祖父が倒れたときがこんな感じだったので当時のことが思い出されドキドキしました。

このあと安川さんは「私」と通りかかった稲葉さんという近所の人とに救急車を呼ばれて病院へ。冒頭のシーンから読者は、安川さんの昏倒の原因を脳卒中とか心筋梗塞とかと勘違いしたままでサスペンス状態におかれますが、検査の結果は睡眠薬の誤飲でした。安川さんに身内は息子が一人いるもののこれがどうしようもないドラ息子で、

頭を金髪に染めた一八〇センチを優に超える長身で、紫色をした花柄のシャツとデニムのズボンを着けている。高校中退後、工務店や不動産屋などの勤めを転々として来たが、二十代半ばの今は無職で親掛りの身。盛り場での暴力沙汰は珍しくないし、この町内でも何かと揉め事を起こして、そのたびに安川さんが謝りにまわる始末だった。(p.157)

という、おしゃれになった西村賢太みたいなやつです。

安川さんは、病院で処置を終えて帰宅した後も、日ごろ安川さんが講師となって近所の主婦連に政治経済を教えている「安川さんの教室」に無理をおして立とうとします。そこで「私」はこのドラ息子・恭太に、

「今日の授業はやめたほうがいいって、あなたからお母さんに言ってあげたらどうですか。集まってる人たちには私から話しておきますから」と言ったら、恭太は「ヘッヘッ、フヘヘッ」と奇妙な笑い声を漏らし(p.157)

と助言を聞き入れません。この笑い声は、ほんとうにこいつどうしようもない奴なんだなあと思わせる秀逸な笑い声ですね。ヘッヘッ、フヘヘッ(笑)。

で、恭太が近所の美容院「プリティフラワー」でいいふらした家庭内の事情が町内に広まっています。それによればに安川さんの父は荒物屋の商売が立ち行かず借金を残してトラブルに巻き込まれ殺害され、安川さんの母は安川さんが高2のときに兄妹をのこして出奔そのまま行方知れず、兄は安川さんが大学を出て教職に就いた年に駅のホームから転落して死亡、安川さんの前夫は愛人をつくって離婚と散々な人生ですが、

そうした境遇にありながら、安川さんは愚痴ひとつこぼさず、いつも笑顔を絶やさない。(p.159)

と、「私」は尊敬のまなざしで安川さんを見ています。と同時にこれほどの不幸な目にあいながらそれを気にする様子を見せない安川さんに対し、「鈍感なのかも」とか「頭の働きが少し弱い」だけかもしれないとも思いなし、その人間像は「私」のなかで謎を孕んだままです。そんななか、安川さんの教室に石黒さんというこれまた不幸に見舞われた人が乗り込んできて人目気にせずひとしきり自分の不幸自慢をしますが、安川さんはそれを無視して淡々と授業を続けます。で、後日、「私」と安川さんは会話を交わします。

「きのうもまた睡眠薬をたくさん飲むところだったんですよ」
「そりゃ大変だ。いつかみたいにサプリメントと間違えたんですか」
「ええまあ」
「でも今度はよく気づかれましたね」(p.163)

作品冒頭で安川さんが昏倒したのと同じことがまた起こったらしい。しかし「私」は、なぜこの安川さんという女性が同じ間違いを犯したのかに思いをいたすことなく、結果として何事もなかったことに胸をなでおろしているだけ。作品中盤で息子の恭太によって暴露される安川さんの過去を、もしも地の文で書き手とほとんどかさなる誰かわからない語り手が嬉々として綴って(語って)いたなら、僕は「そんな悪趣味な……」と作品外の判断基準を持ち込んでいるのを十分自覚しつつも読むのをやめてしまったはずです。しかしこれはあくまで作品内の「私」が他人の不幸ごとあるいはゴシップを喜んでいる傍観者的な態度だと受け取れば、安川さんが最後になぜ命にかかわるような過ちを繰り返してしまったのか納得いくはずですね。最後の最後まで安川さんの内面にふれることなくブラックボックスのまま綴ってきたことによって、語り手の、善意の隣人に居直ることの悪質さが浮き彫りになっています。全体に、NHKあたりのテレビドラマのようなレディメイド感はありますがこれはこれで面白くよめました。

(追記)文藝春秋出身で芥川賞候補になったというのはなんだか笑えますがその候補作は「不幸の探求」というタイトル。もともと人の不幸について関心のある書き手のようですね。「不幸の探求」は作品社の本に収められているようです。作品社HPのリンクはこちら。作品紹介文で、表題作ではなく「表題策」という表記になっています。

星野智幸「クエルボ」

出典:『群像』2014年2月号
評価:★★★★☆

クエルボという変わったタイトル。僕にとっては体操競技の跳馬の技名がまず思い浮かんだんですがそれとは関係なく(笑)、本作の「クエルボ」はテキーラの名前Jose Cuervoから採られています。そしてクエルボはスペイン語で「カラス」、テキーラのホセ・クエルボにもカラスの図像が入った紋章が描きつけられています。今は仕事を引退している初老の「私」が、学生時代に愛飲したテキーラからとった愛称でもって妻から「クエルボ」と呼ばれているというのがお話の枠ぐみ。

タイトルに冠されているクエルボ=カラスが本作にとって重要なモチーフになっています。普段生活している常識でカラスといえば、迷惑な鳥、不吉な鳥、意外と賢い鳥ほどの印象しかないですが、本作ででてくるカラスにはそういう日常的な理解を超えたもっと古い無意識にアクセスするような神的な不気味さが感じられました。もうちょっと文学的な文脈でカラスについて頭をひねってみると、お伊勢さんの八咫烏や、北米インディアンの神話でトリックスターとして出てくる大烏、あるいはもっと時代がくだってエドガー・アラン・ポウの詩The Raven、そしてカラスではないのだけれどどこかカラスを思わせるマラマッドの小説The Jewbird。こう考えてくると鳥の中でもカラスというのはとりわけ創作をする人たちの間では特別な位置を占める鳥なのかもしれません。

馴染みのカラスが、自分の縄張りにいる人間の行動を把握したくなって追跡しているのだ、と想像してみる。私は自由意志でここに暮らしているように思っていたけれど、じつはこの縄張りの主であるカラスの支配下にあり、カラスのおかげで平穏な生活が送れているだけなのだ。それでカラスは今日、みかじめ料の取り立てに現れた。(p.126)

語り手の「私」の中で、カラスが特別な意味をもった鳥として描かれています。語り手クエルボにとってのこの特別さを読者が共有できるかここがポイントで、僕は最後の一ページ、「私」の身体と知覚が知らぬ間に人間としての「クエルボ」からカラスとしての「クエルボ」へと変容あるいは人間であると同時にカラスでもある存在へと変容している描写で、うまく説得されてしまいました。

語り手クエルボの周りではなにか言い知れぬ不全感が漂っています。それは小説の冒頭、公園を散歩中の犬が飼い主の不手際によって排便の中断を余儀なくされる場面(糞切りが悪い)とか、元職場の同僚から「秘密保護法」施行反対の署名を求められたものの、賛成にしろ反対にしろその法律に対する旗幟を鮮明にできないでいる中途半端感とかにあらわれている。はっきりすっきりすればいいのだけれどそうならず、頭の中も身体ももやもやうだうだしたまま。

カラスに餌をやろうとしても妻からは反対される始末で家の中にも身の置き所がありません。

「洗濯物とかに糞されたらどうするの。私が洗濯物しているときとかに寄ってこられたらたまらないし。本当にやるなら、洗濯もこれからはクエルボがしてよね」(p.127)

こんなこともあり、自分にとってなんだか割り切れない世の中に対して語り手クエルボはうだうだ考えを巡らせます。

何が世の中の役に立つかなんて、わかるわけないじゃないか。自分が善だと思っていることは、じつは多くの人の迷惑でしかないかもしれない。逆に、無意味だと思われた行いが密かに誰かのためになっていたりする。例えば、もし人類の繁栄の後にカラスの繁栄の時代が到来するとしたら、私の行為は未来のためになっているかもしれない。(p.129)

このクエルボの超人類的な考え方には一応の筋は通っていて話として僕も納得できます。と同時にこの主張を認めてしまうと、真逆も成立してしまうわけで結局彼の不全感はのこったままなんでしょうけど(笑)。

人が限られた生を生きる限り、そのなかで政治的主張だけでなく日常的な些細な行いにいたるまで、何らかの立場を(無理にでも)選び取らないといけないのはもうしょうがないと僕には思えますが、クエルボはそこでこんな風にうだうだと考えてしまうんですね。クエルボははっきりと自覚してないだろうけど、僕なんかにしてみれば未決断のままこんな風に考えられる時間的経済的余裕があるっていいなあと少しうらやましい気もします。

そして話は最後の場面、不全感を抱えたままのクエルボが自分の頭のなかだけでなくその身体までもを、実際にか想像のなかだけでかははっきりしませんが、とにかく語りの中で「クエルボ」へと変容させます。次はその変身のシーン、人目につかない屋外にて。

 自分の説得を裏切って、私はその場で尻をむき出しにすると、リースの上にしゃがんだ姿勢でふんばった!
 出た。明らかに肛門とは違う通路から、小さなものが三つ、転がり出た。全身の力を使い果たし、脚がぷるぷると痙攣している。ズボンを上げながら、転がり出たものを見る。
 緑がかったウズラの卵だった。いや、私が産んだのだから、ウズラの卵ではなく、私の卵だ。クエルボの卵だ。新しい未来の誕生だ。私とカラスとの。(p.133)

産まれた卵は吉兆を告げているのでしょうか。「新しい未来」という言葉になんとなくポジティブな響きを感じ取ってしまいそうですがそこでもう少し踏みとどまって考えてみるに、その新しさは誰(何)にとっての新しさか、クエルボにとってポジティブなものは人間たちにとってもポジティブなものになるのか、まさにクエルボが日常の糞づまり状態のなかでうだうだと悩んできた問題が、卵の形をとって読者の目前に転がり出ました。もしクエルボが人間社会「外」の存在となってしまうならこの「新しい未来」を内に秘めた卵はたちまち人間社会の平穏を爆砕する爆弾となるやもしれない。産卵のすがすがしさのなかに一抹の不穏さも胚胎させた、いい短編でした。
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