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村田沙耶香「トリプル」

出典:『群像』2014年2月号
評価:★★★☆☆

注意:以下にはあからさまに性的な表現があります。苦手あるいは不快を感じる方はここで読むのをストップしてね。


作品冒頭恋人とので待ち合わせ場所に赴くため化粧をしている高校生の「私」に母親がこんな言葉をかけます。

「デートって……それはいいけれど。ちゃんとカップルでデートするんでしょうね?」
 私はグロスを指で伸ばしながら笑った。
「当たり前じゃない」
「そうよね、真弓ちゃんに限ってそんなこと……でもほら、今、流行っているっていうじゃない」(p.40)

と母親は何かを心配している様子。この「今、流行っているっていうじゃない」という言い方はうまいですね。流行っているものをわざと省いて、読者に「何が流行ってるの?」と疑問を抱かせ作品世界に引き込む言い方になっています。と同時に、母親の心理的な規制によってはっきりそれとは口にしづらいような何物か、後ろ暗い物が話題になっているとも分かるようになっている。

ここで母親が心配しているのは、「トリプル」と呼ばれる男女間の人間関係。これは僕たちが暮らす今の日本では異性間(たまに同性間)の関係、二人一組でカップルと呼ばれるような、まあいってみれば「ふつうの」関係ではなく、もう一人加わって三人組の、といってもトリプル関係が出来上がるのは二人組に一人が声をかけて合意したところではじめて成立する関係だから、一足す二の末に生まれる三人一組の関係のことを指しています。これまた僕たちの手持ちの言葉でいえば3Pといってしまいたくなりますが、それとも大いにずれていてこの作品独自の人間関係となっています。ちなみにテクストの表記にしたがって以降も「トリプル」という言葉を踏襲しますが、二人一組=カップルにたいして三人一組を示す言葉は、トライアッドTriadです。ダブルに対する言葉がトリプルですね。

どの辺が独特かというと特に身体が接触する場面です。

三人でキスをするのは、大人が思うよりずっと簡単だ。百二十度ずつ角度を分け合って顔を近づけると、驚くくらいしっくりと三つの唇が合わさる。(p.45)

なにか幾何学的な美しさがありますね。僕がイメージしたのはトリプルの三人がキスし合うために顔を近づけていく動きを、俯瞰のカメラで真上から映している映像でした。一対一でキスしてを三回繰り返すのではなくて一度にキスしてしまうんですね。また、キスがこんな感じなのでその先のセックスもトリプル独特の様式をとります。それは三人のうち一人を「マウス」として指名し、「マウス」になった一人が体中の穴という穴をほかのふたりに愛撫され、舌や指を挿入されるというもの。

マウス役の子だけが服を脱いで、他の二人は着衣のままだ。そして、マウス役の子は、体中の穴で、他の二人のありとあらゆるものを受けとめる「口」になる。(p.48)

性差を超えたエロティックなものに一貫して関心のある書き手らしい表現です。もっともこの「穴があったら何か入れたい」という欲望は、実際に肛門性交、口腔性交、異物挿入、耳の中に舌を入れたり、口の中に指を突っ込んだりと性交時にさまざまな形で行われる行為のみならず、もっとマイルドな形式でいえば、教科書の数字の「0」とか「6」とか「8」の空白を鉛筆で塗りつぶしたり、幼児が塗り絵を楽しんだりといった日常的にみられるごくあたりまえのふるまいにも具現していますね。

作中ではこのトリプルの性交は非常に穏やかなものとして、マウス役の者にとってはさながら羊水の中で眠る胎児の快感を味わうものとして描かれています。この点も僕らがお手軽にみられるネット動画の無修正3Pものとはだいぶ異なっている作品世界独自の設定です。かける時間もものすごく長く「5時間(p.50)」で、マウス役も男の場合にはかなりマイルドに射精する(笑)。次の引用は、圭太というスポーツマンタイプの男子がマウス役です。

圭太の穴の中に私たちの体液が流れ込んでいく。「うっ」という声がして、いつの間にか勃起していた圭太のペニスからトロトロと白い液体が流れ出た。(p.49)

30歳過ぎているならまだしも高校生男子なら「トロトロ」はないはずだと現実なら言いたいところですが、この「トロトロ」の射精もふくめて、トリプルの性交の穏やかさが作品内の設定として表現されているんでしょうね。僕自身は3Pには全く興味ないしもちろん経験もないですが、もしもそんな気持ちいいもんが現実にあるんだったらぜひ挑戦してみたくなりますね。お相手はアマちゃんと檀蜜さんあたりで5時間コースで。

閑話休題。このトリプルの関係は若い世代に流行しているものであって、先行世代、作中でいえば「私」の母親世代にはかなり強い抵抗感があるようです。上で描かれているようにトリプルは、3Pのようなもの、あるいは体の欲望を単に満たすためだけのものとはずいぶん異なる付き合い方なのですが、先行世代はどうしても「淫らな」関係としてトリプルを頭っから否定してかかる。年齢が高くなるほど性的な関係について保守的な態度をとるというのは僕たちの生活している世界でも同じですね。この、娘がトリプルとして男二人と付き合っていることを知った母は言葉を尽くして罵倒します。

「この淫乱女! あれほど言ったのに、よりにもよって男の子二人となんて! 汚らわしい!」(p.51)

娘に「淫乱女!」はないだろうと思いますが、母親はこの後も取り乱しきって娘に「純情ぶるんじゃないわよ!」「こんな売女に育つなら、生むんじゃなかった!」「この男狂い!」「色情狂!」と、罵倒の機関銃を掃射します(笑)。この部分を、書いている方は結構楽しくご機嫌で書いたんじゃないかなと推測します。僕には、もちろんこれはこれで面白さはあるものの、悪乗りのほうが勝っていて白けも同時に感じました。白けないようにするためにはもうちょっと長い作品で母親の人間もじっくり描いてこの豹変ぶりに説得力を持たせることが必要だったかもしれません。このままだと単なる性的に保守的な役割を割り振られた母親という名前の木偶人形です。人形の後ろで操り糸を一人楽しげに操作している人形遣いの、本人はばれてないと思い込んでいるらしい姿が観客には丸見えだったという感じ。それに、これらは母親が娘を叱る言葉というより、浮気した女にたいして甲斐性のない男が腹立ち紛れに投げつける言葉ではないか。『痴人の愛』のジョージをなんとなく思い出しました。

というわけで全編、性に関する言葉に満ち溢れている短編でした。それも、今ではネットさえあればだれでもアクセスできる扇情的なものとは違った、もうすこし深い部分から捉えようとする性的フィクションです。トリプルという着想も、僕たちの暮らす世界でいえば性的マイノリティーのそれに近いものとして類推できるし、一定の性交……、成功を収めていると思います。本作で新しい三人の性的な関係を描いた村田沙耶香。次回作では新しい親子姦あたりでしょうか(妄想)。ぜひとも、AVや同人雑誌で既に表現されてしまっているありふれた性的表象を圧倒してほしいと、いまから期待せずにはいられません。

吉田篤弘「梯子の上から世界は何度だって生まれ変わる」

出典:『群像』2014年2月号
評価:★★★☆☆

 まずいコーヒーの話なら、いくらでも話していられる。おれのこれまでのところの人生は、あらかたまずいコーヒーと共にあった。おれは基本的に不運なんだと思う。じつにおかしな奴らばかりと出逢ってきた。(p.102)

のっけからハードボイルド!

おれは常に街なかに居ないと落ち着かない。街にはノイズがある。雑音がなければ街じゃない。おれは要するに雑音を愛している。
 もともと、おれは雑音ならぬ雑文を書いていた。ノイズのような文章だ。世間ではコラムと呼ばれていたが、おれは一般的なコラムの様式から外れて、自由に書いた。自動販売機のまずいコーヒーを片手に、月に二十本は書いた。(p.103)

イッツ・ハードボイルド!冒頭の1、2ページを読んだ時点で、カーヴァー(村上春樹経由の)とかチャンドラー(村上春樹経由の)を連想しました。「雑音がなければ街じゃない」からはそのままデューク・エリントンの「スイングしなけりゃ意味がない(It Don't Mean a Thing If It Ain't Got That Swing)」の響きをききとれますし、これも翻って村上春樹の「意味がなければスイングしない」に繋がっていきますね。そういえばまずいコーヒーというのも伝統的なジャズ喫茶名物でした。

このコラムで生計を立てていた男は、自分に投資して「電球交換士」となります。

ただひとりきりの〈電球交換事務局〉を立ち上げ、ただひとりの事務員、だたひとりの作業員として、世界中の──ただし街なかの──この切れて使えなくなった電球を交換してまわる。(p.104)

この、電球が切れれば切れたままにしておけないので誰かが、とりたてて人に知られることがなくとも交換してまわる必要があるという、あたりまえといえばあたりまえといえる作業も、『ダンス・ダンス・ダンス』の「雪かき」の変奏ですね。

こうして村上春樹の痕跡ばかりを読み取っていてもしょうがないんですが、全体としては、大人の童話(エロい意味ではなく)的な印象を持ちました。夜、美術館で電球交換をしていたときに、一人の女と出会います。ここから展開するファンタジーのような流れ、彼女の口から「絵」が出され、その中に閉じ込められたというのは「みんなのうた」のメトロポリタン・ミュージアムですかね。超なつかしー!

 あらわれたのは彼女のかたくとざした口と、その唇のはしからこぼれ出た何やら尻尾のようなもの。その尻尾は何色ともいえず、あらゆる色が水たまりに落ちたガソリンのように流動していた。わずかに発光しているようにも見える。(中略──引用者)
 が、引きずり出されているものの正体が分からなかった。最初はそれこそ手品でも披露しているのかと思ったが、しだいに姿をあらわし始めたそれは、空気に触れるそばから膨らみ出した。みるみる膨張が著しくなって、やがて、とんでもないものが引きずりだされていることに気づいた。
 絵だった。
 より正確に云えば「風景」で、あとになって彼女が使った言葉に倣えば「見知らぬ風景」だった。(pp.107-8)

本作の全体のなかでなにか大事件が起こるわけではないですが、描写のひとつひとつにはどこかざわざわしたノイズ、ここちよい雑音がふくまれていて、それらがゆるやかにつながって一杯のコーヒーを飲んでほっとするような読後感をのこしてくれます。腹いっぱい食べたー!というんではないけれども、ああ美味しかった、という感じの素敵な短編でした。本作は、下北沢のセレクト系書店を徘徊するサブカル女子(マッシュルームボブ、赤のセルフレーム伊達眼鏡)が涎を垂らしてむさぼり読む一作です!

てことで最後のリンクはメトロポリタン・ミュージアムのジャズアレンジ曲を。スイング、スイングです!

【メトロポリタン美術館】(注意:音が出ます!)

作詞作曲は大貫妙子なんですねえ。当時はそんなこと関係なしにテレビで聞いてたなあ。

中原清一郎「カノン」

出典:『文藝』2014年春号
評価:★★☆☆☆

変身をテーマにした文学作品は枚挙にいとまなく、変身の原理についても時代時代で神様の仕業、魔法、幻想、夢、錬金術、変態性欲、抑圧されたもう一人の自己、理由のない不条理まで様々です。変身の原理に近未来的なテクノロジーをもってくれば攻殻機動隊のようなサイバーパンクができあがる。本作はこうした古今様々繰り返されてきた王道といっていいテーマを、「海馬の移植」という医療技術の進歩で説明します。もっとも、本作の主眼は医療技術そのものの探求によりもむしろ、海馬移植に伴う当事者の葛藤、周辺の人間関係の変容、移植後の自己の在り処などにあります。社会の倫理ともぶつかるテーマだけあって650枚という長編作品です。

題辞にある「海馬」は本作の扉を開く鍵ことばです。

海馬【かいば】③(hippocampus)脳の内部にある古い大脳皮質(古皮質)の部分。その形が、ギリシア神話の神ポセイドンが乗る海の怪獣、海馬(ヒポカンポス)の下半身に似ているのでこの名がある。情動の発現およびそれに伴う行動、さらに短期記憶に関係し、種々の感覚入力に応じて時間空間情報を認知し、一種の統合作用を行う。アンモン角。海馬体。(「広辞苑」)(p.76、括弧内はすべて原文)

海馬の提供者と被提供者が本作の主人公。いわばダブルキャストで、作品タイトルにもあるように一種のカノン、別々の声部が追いかけっこするようにして一つの音楽的調和を生み出していく手法によって二人が一人の人間として「カノン」という小説を紡いでいきます。

全体の感想を先に書いておけば、序盤は丁寧で期待度が高まったんですが中盤から後半は安易な方向に流れてしまって残念でした。もっとも、読者の関心によっては序盤よりも中盤後半のほうが楽しめる人もきっとおおいはず。いずれにしろ序盤と中終盤でのテイストにズレがあるように思いました。

序盤は当事者や家族のたち思いをそれぞれ丁寧に掬い取るように描いており、また移植に伴う法律や専門家たちの議論も門外漢である読者にも分かりやすく書かれていました。それらを踏まえたうえで移植後の頭と体とを「渚」の比喩で説明する部分は読者の感覚的な理解も促してくれる出色の個所です。以下は海馬提供者の寒河江北斗という男性(58歳)と、提供者被提供者間のやりとりをとりもつコーディネーター黒沢との、移植前の会話です。

「心って、いまの科学では、脳にあることが分かったんじゃないのですか?」
 ようやく疑問形でそう寒河江が黒沢にいうと、黒沢は小首をかしげた。
「そうでしょうか。心って、渚みたいなものではないでしょうか」
「渚?」
 寒河江は思わずそう聞き返した。
「そう、渚です。一方には頭があり、他方には体がある。海と陸のように、そのふたりが出会う波打ち際です。ふだん私たちは、頭が身体を支配していると思い込んでいる。でもそれは、長い時間をかけて、頭と体が馴染むようにしてきたからだと思うんです。もし脳が、別の体と結びついたら、そんな穏やかな静けさは続きません。海は怒り、大きな津波になって岸辺に押し寄せるかもしれません。そうすれば、波打ち際の静けさは打ち破られ、心はかき乱されることでしょう。でも、もしそこでじっと耐えれば、きっとまた渚に穏やかな平和が訪れる日が、いつか、やってくるんだと思うんです。そのとき、新しい陸と新しい海は、またひとつの静かな凪の風景になるような気がするんです」(p.85)

「波打ち際」なんてワードは松浦寿輝を歓喜させることでしょう。とここは松浦氏は関係ないのでおいておくとして、この渚のイメージがありありと読者の頭のなかに刻み込まれるだけではなく、手術前のこの会話がこれからはじまる物語の予告になっているんですね。移植後きっと波打ち際は荒れるだろう、その荒れを乗り切った後に静かな「凪」がやってくるだろうという。

一方、海馬提供を受ける女性のほうは氷坂歌音(32歳)という女性編集者です。こちらは寒河江北斗とは逆に、身体は健康ながら海馬が病に侵され記憶力が日に日に弱くなっていく。夫と五歳になる一人息子がおり、残される家族、とくにまだ幼い息子のために移植を決意したというのがいきさつです。

僕が本作に納得いかない、かつ前半後半のチグハグさを生み出しているのは多分ここに一つの原因があるのではないかと思いました。誰しも死ぬのは怖いことだし残された家族のことを心配する気持ちがあるのも分かります。ですが、体の自由が利かなくなった寒河江が海馬提供するというのは臓器移植の延長上に理解できるとしても、歌音はなぜ大掛かりな手術(日本で二例目)を決意したのかが分かりません。いや、上のように一応の説明はあるものの、手術後海馬の被提供者がどうなるかといえば本作によれば大部分が提供者側=寒河江の記憶や人格が歌音の身体を間借りしている状況となるようです。手術後ことばや振る舞いの適応訓練を受けるとはいえ中身はおっさん。そうなってまで歌音は何を残そうとしたのでしょうか、何度考えても分かりません。次の引用部は、移植を終えた歌音(中身は寒河江)が夫拓郎と息子達也の暮らす家に帰ってくるところ。

 だが、その日歌音が帰ってくることになって拓郎は、俄かに胸騒ぎがした。歌音の容姿はそのままだ。しかし新しい歌音のなかに潜み、その記憶を司っているのは、自分の両親に近しい歳の男性なのだ。(p.141)

と夫は不安を抱いています。この不安を裏書きするようにこの後つづく中盤からは、作品のトーンが転調してコメディタッチになります。あるときは初老男性の育児奮闘記であったり、またあるときは初老男性がやり手女性編集者になりすましてファッション誌の営業を担当するキャリアウーマン細腕繁盛記であったり。初老の男性が働き盛りの女性として暮らしていくうえで直面するギャップに、笑いや社会批評めいたものがあるもののとりたてて目新しくはありません。それに、かなり既存の表現に寄りかかっていて通俗すぎるところが、序盤の丁寧で真剣なトーンとくらべると興ざめでした。

たとえば職場で、寒河江の頃の営業知識とコネをつかって業績をあげる歌音に職場の同僚たちが嫉妬する場面。歌音を敵視する同僚女性三人組がワインバーで謀議を重ねるなかで

「そういう訳なのよ。でも、むかつくわ。あの人、優等生ぶっちゃって」(p.167)

なんていうセリフも飛び出します。なんとなく『ガラスの仮面』の北島マヤを妬む劇団員たちの姿を想像しました。僕は『ガラスの仮面』は大好きですし、こういうベタ表現も好物なんですが、序盤のテイストとはどうしてもちぐはぐで馴染みませんでした。ちょっと贅沢をしたくてカウンターのお店で懐石料理を食べていたら、途中で唐突にマクドナルドのハンバーガー出された、みたいな感じでしょうか。マックのハンバーガーも「あー、ジャンクフード食べたい!!」となった時にたまに食べるからうまいわけで、タイミングというものがあろうかと思います。懐石料理のなかにハンバーガーを紛れ込ませるのも現実の懐石料理ではなく小説という創作料理なら「あり」ですが、その力技を成功させるには料理人の高度な詐欺的技量が要求されるはずです。本作はその点、どうしてもちぐはぐ。このあと歌音を陥れるためにライバルの同僚がなりすましの偽メールを取引先に送って職場を混乱に陥れます。すぐにばれそうなお粗末な悪事、のみならず職を失い損害賠償請求されるリスクさえある悪事を働く感覚が僕にはちょっと信じられません。作品にひと騒動おこすためだけに作られた人物、その安易な書かれ方が浮いています。

こんなふうに歌音(中身は寒河江)のまわりで起こるトラブルは絶えません。しかし事態がおおごとになりかけると、「都合よく」歌音の人格が歌音の身体を乗っ取り、事態を収拾します。ここも、ありきたりすぎる表現ですし作品内での整合性も取れていません。ちっぽけな存在に堕したデウス・エクス・マキナのようです。

いや、ピンチにならないときも歌音が都合よく出てくる。次の場面は、歌音(中身は寒河江)が風呂の脱衣所で女性になった自分の身体を眺めている場面。

歌音が自分の肉体をじっくり眺めるのは、はじめてだった。なだらかな肩から、次第に両方の乳房が丸く盛り上がって弾力のある均整な山となり、その頂点で乳首が、つんと上を向いている。乳輪はまだピンク色をして、艶やかだ。出産して腰は少し丸みを帯びてはいるが、くびれはまだ、しっかり締まっている。歌音は次第に視線を下におろし、きれいな三角に広がる秘所を見つめた。そのときだった。
「やあね、やめて。そんな目で見るの。すっかり嫌らしい目になってるわよ、歌音」
 北斗の意識は、確かにその声を聴いた。狼狽したまなざしで思わず周りを見回したが、脱衣所にいるのは歌音だけだった。(p.143)

「やあね、やめて。そんな目で見るの。すっかり嫌らしい目になってるわよ、歌音」なんて三十二歳の女性のことばというより、しなをつくったオカマの言いぐさにしか読めませんが(笑)、とにかく歌音がたびたび出てくるのにはご都合主義以外のことばはありません。ちなみに題辞には海馬は「短期」記憶を司る部位というんですから、寒河江の海馬は、脳の別の部位に保存された歌音の身体を見慣れたものとして判断はしなかったのでしょうか。そのあたりの、短期記憶、長期記憶、言語野やしぐさの記憶が、移植後どう連結されて、どこで葛藤を起こしているのかも、本作では曖昧になっていると思いました。この曖昧さをうまくカバーするというか誤魔化すのが「渚」の比喩だったと僕は思うのですが、現実の世界で歌音(中身は寒河江)が動き始めるとどうしても細かい部分で齟齬がでてしまっています。

結局、本作には、序盤に期待が持てたものの、中盤終盤がテレビドラマか古い漫画の表現に寄りかかってしまったような印象をうけました。中終盤のテイストもそれはそれとして独立しているなら通俗的面白さはあるのですが、僕のように細かいことが気になってしまうような読み手にはちょっとアラが目立ち過ぎました。細部が気にならないとか、齟齬があっても飲み込んで小説の流れに身を寄せることのできる読者はきっと本作を楽しめることでしょう。

木下古栗「天使たちの野合」

出典:『群像』2014年2月号
評価:★★★★☆

第150回芥川賞は小山田浩子に決まりましたね。ニコニコ動画での電話インタビュー、受け答えのひとつひとつに一生懸命丁寧に答えてらっしゃったのが好印象でした。赤ちゃんもすくすく育って欲しいですね!まかてもタオルコもおめでとう!

さて平常運転で本作の感想を。群像2月号は岸本佐知子からのお題「愛」に応えて作家たちが短編を発表する特集「変愛小説集」。有名作家から若手までとりどりの書き手が書いています。お題「愛」に忠実に男女愛を書いたものもありますが、本作「天使たちの野合」は読んでもわかりやすく「愛」というメッセージが読み取れるようにはなってませんでした。いつものように下ネタ満載(若干ライト目)なのでそれが「愛」ということだったでしょうか(笑)。

冒頭はこんな感じ。

 日中であること以外、何時頃なのか判然としない時の流れが滞ったような薄曇りの空の下、自動ドアから出てきた山中誠一はポケットから携帯を取り出して、その時刻表示を確かめた。(p.79)

初読では、普通の天気の描写、なんてことない作品の導入に見えたんですが、書き写しながら気づきました、あらためて読み直せばこの「時間のわからなさ」「薄曇り」という、「これ」とはっきり特定できない「無」みたいなものがこの作品のテイストを予告する下地としてちゃんと書かれてあったんですね。中盤のかなり長い会話のやり取りも、地の文を「無」しにして会話だけでつないでいく、その無重力感、「いつ・どこ・だれ」の発言かはっきり明示され「ない」ですし、終盤の頭爆発シーンでは「無」のエッセンスが凝縮され描写のなかにさまざま鏤められています(後述)。中盤の会話から幾つか引用します。

「ペルシャって今どこだっけ? トルコ?」
「いや、イランだろ、確か」
「そうだった? でもトルコも絨毯が有名じゃなかった?」
「トルコは風呂だろ」(p.81)

自由恋愛という建前のまかりとおる風俗ですね。一般の二十代前半以下にはもう死語じゃないだろうかトルコ風呂。

続いて、待ち合わせ場所になかなか来ない人物について、先に着いて待つ二人があれこれ推測する会話。

「それか仕事の電話でもしてるんじゃない? ほらあそこ、店内通話禁止って張り紙してあるから。急な見積もり対応でそのままその辺のコーヒーショップでひと仕事とか」
「ああ、それでついでに、そこらで女でも引っ掛けて身障者用トイレに連れ込んでオ○ンコしてるのかもな。米山って十代の最も道を外れてた頃はずっとそんな感じの放蕩ぶりだったって、前に人づてに聞いたことがあってさ」
「へえ」
「何だよ、じっと見て」
「いや、日常会話でオ○ンコなんて言う奴いるんだって、俺の中の常識が震撼してさ」(p.82、伏字はいずれも原文ママ)

こうしてときにお得意の下ネタを交えつつ話は終盤に。ここに来るまで待ち合わせている人物は来ず、ということは普通に考えれば終盤に待ち合わせの人物が来てひと騒動……と常識的には先を予想してしまうのですが、そこはこの書き手、読者をうまく裏切ります。

終盤急展開過ぎて、並みの書き手であればその前後で木に竹を接いだような一貫性の欠如、すなわち欠点として指摘されそうなところを木下古栗は難なくクリアします。その理由として一つは有無を言わせぬ圧倒的な描写、もう一つは作品冒頭から通奏低音として響いていた「無」の爆発。待ち合わせに来るべき人が来ないまま──考えてみればこれも「本来いるべき人物がいない」で「無」に繋がりますね──、待っていた高橋らの頭が爆発します。その描写を読んでみましょう。

 高橋の頭が、思い切り息を吹き込まれた飴細工の風船のように急激に膨らみ始めた。黄味を帯びた皮膚が、乳白色に剝かれた白眼が、断末魔の叫びのごとく大きく開かれた薄紅色の口とその奥でもつれた舌が、すべて半透明に薄まりながら伸びていき、みるまに世界一大きなカボチャを超えるほどに膨れ上がって、表面積が桁外れに広がって頭髪の一本一本もまばらになった頭頂部から破裂して、真空のような無音が弾けた。その無音の膨張と入れ代わりにどこかに一瞬で吸い込まれてしまったのか、内部は完全に空っぽで、一切の骨肉や脳髄の飛散も見られず、伸びきって大破した飴細工のような、あるいは特殊なガラス細工のような淡い色味の半透明の、高橋の頭の抜け殻が、頭頂部から凄まじく放射状に裂け、外側に反り返って大きな花弁さながらに垂れている。それらの花弁は冷えて固まった質感で、縁の部分は激しく千切られたように刺々しく、曲面は不均一に歪み波打ちながらも、ぎらついた艶かしい光沢を鈍く放っている。薄暗く黒ずみ始めた曇り空の不穏な色合いが、その半透明の花弁に映り込んでなお霞んで見える。
 分かるだろう? 食事の席で下品な単語を発するような奴の頭は爆発するもんさ。(p.89)

いやー、もう圧倒的です。淡かったり色が無かったりする「無」に関連する色味がこの短い一節の間に無理なく嵌め込まれ(「黄味を帯びた」「乳白色」「白眼」「薄紅色」「半透明」「淡い色味」「霞んで」)、あるいは「無」に関連する事物が比喩も交えて取り入れられ(「風船」=中身は空間、「カボチャ」=頭部のたとえですから当然ジャックオランタンに連想、「真空のような無音」、「無音の膨張」、「空っぽ」、「抜け殻」)て、大破した飴細工あるいはガラス細工の破片の光沢へとつながります。

頭部が無音の膨張、そして爆発というわけのわからない事態、無音の余韻のなか頭部から反り垂れる謎の花弁。それらを強引に納得させてしまう決め台詞、「分かるだろう? 食事の席で下品な単語を発するような奴の頭は爆発するもんさ。」には、それまでのストーリー展開から論理的に考えても、日常的思考を働かせてみても全く理解不能な事態に有無をいわさず「分かった気にさせてしまう」暴力的説得力があります。この一文を読んだ直後読み手はきっと、「分かんねーよ!」と反語的ツッコミを叫びながら、しかし一方では芯から同意していることでしょう。

この作家の力作「新しい極刑」が芥川賞の候補にすらのぼらなかったときに、翻訳小説として海外で読まれその外圧によって日本の読者に知らしめるしか方途がないと愚痴りましたけれど、この短編だって文章がべらぼうにうまくなったフィリップ・K・ディックが書いているような感じもありますよね。円城塔の「Self―Reference ENGINE」がフィリップ・K・ディック賞にノミネートされた現在、それなら木下古栗の作品だって候補、受賞作になったってぜんぜん違和感ないクオリティーがあると僕は断言します。SF系の出版社さんあるいはどこかの出版社さん、本当に、本当に、翻訳検討してみてください、マジで。

坂口恭平「蠅」

出典:『新潮』2014年2月号
評価:★★★★☆

芸が細かいというか、細部の表現や仕掛けを楽しめる作品でした。短編の分量でこれだけいろいろやろうとするととっ散らかってしまいかねないところを、うまくまとめていると思います。気に入ったフレーズをいくつか。

ベルリンに今も燻っている火の欠片が鼠のように喉に入り込んできた。(p.144)

脱走を目論む囚人は、監獄の緻密に計算された細部を次第に知っていくにつれ、脱走を諦め、ついには外の世界があるという事実すらを頭の中から除去してしまう。(p.146)

太陽が無人の監視塔に見える。周囲をちらりと眺めると、多くの囚人がまるで観光客のように何気なく歩いている。(p.147)

太陽を監視塔に見立てる表現の一連の文がかもすイロニーにはしびれました。なるほどこういう書き方があるんだなあ、と。第二文を常識的に「多くの観光客がまるで囚人のように何気なく歩いている」とやってしまっては台無しですよね。

ドイツのベルリンをふらふら歩く「僕」の見たり聞いたりしたものが、僕のレンズを通して、つまり上のようなピリッとしている表現で、描かれます。また折に触れ読者を安心させない書き方も僕好みでした。次の引用は、躁鬱病の「僕」が現地で出会った女の子との会話の中でその彼氏も躁鬱病だとわかって、彼氏にどう対したらいいかアドヴァイスを与える会話。

「あなたがしたいと思ったときに、何の前触れもなくスカートの中に手を入れてもいいし、後ろから突然襲ってもいいから。疲れているから今日は無理、とか言わないから、好きなときにセックスを好きなだけしようって、言ってくれ」
「それはあなたのお願いなの?」
「いや、そうではない。これはポルノ小説ではなく、医学書だよ」
「でも、それって結局、紙にぶつけてはいるけど、出会ったばかりの女の人に性的な感情を喚起させるために「セックス」や「舐める」や「看護婦」などの言葉を、書き、話すことで、目の前のマリアを口説いているだけなんじゃないの」
「舐めるとは言ってない」
 血流の具合によって微妙に揺れ始めてきた目の前の画像のズレを調整した。(p.153)

メタな書き方で意図的に眩暈を起こさせる方法は、キマらないとダサさだけが残って無残です。方法のための方法、書き手がそう書きたい、ってだけのやつで筒井康隆がその典型例です。その点本作では、いずれもうまく作品にはまっていました。語り手が躁鬱病という設定によって、こういうメタな見方語り方をしてもわざとらしくないようになっていますよね。小説には原初的にメタへの意識がそなわっているはずで、それをあえてメタのためのメタという風に書いてしまってはダサい、芋臭いとしか感じられませんが、本作では内容と形式がうまくはまっていて作品としてきちんと成立しています。

ほかにもいろいろ仕掛けがあって最後の一行まで読者を飽きさせないサービス精神旺盛な短編作品でした。こういう短編は楽しいですね。
プロフィール

読む人

Author:読む人
小説の感想を、自分基準で。コメントはご自由にどうぞ。

★☆☆☆☆(面白くない)
~★★★★★(面白い)で評価。

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